日向 松尾城(延岡市)

二の丸と三の丸間の堀切

日向を三分する勢力を誇った土持氏最後の本拠

所在地

宮崎県延岡市松山町
【アクセス】
本東寺の西側の山(松山保育園の裏山)が城跡です。本東寺の駐車場を拝借しました。本東寺の南下を通る林道で主郭部のすぐ下まで車でも行けるようですが、非常に細い道です。私は、本東寺から歩いて登りました。但し、こちらも畑地や果樹園などを通り、獣避けの電線があちこちに張ってあるので充分注意して下さい。
本東寺:延岡市松山町1133、電話0982-32-3827
松山保育園:延岡市松山町1106−イ、電話0982-35-1585

所要時間

本東寺駐車場から、山頂部まで7~8分ほど、今回の見学時間は40分弱でした。

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 山林、主郭跡は児童公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、竪堀、城主記念碑、標柱(説明付き)

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/11/29

歴史等

松尾城は、土持宣綱によって文安元年(1444)から3年かけて築かれたと言われる。
土持氏は、この頃都於郡城の伊東氏と不和となり、西階城に拠って備えたが、さらに松尾城を築いて移った。以後、親成まで6代に渡って土持氏の居城となった。
天正6年(1578)正月、豊後大友氏3万の軍勢に攻められ落城し城主親成は自刃した。しかし、大友宗麟は島津氏との日向高城川と耳川の合戦で大敗し、日向一円は島津氏に帰し、松尾城へは親成の子親信が入った。
天正15年(1587)に秀吉による九州征伐後、松尾城へは豊後香春岳城主高橋元種が移封となり、松尾城を修築した。
慶長8年(1603)、元種は延岡城を築いて移り、松尾城は廃城となった。
『「現地説明碑」、「日本城郭大系16」参照』

現況・登城記・感想等

松尾城は、私が松尾城跡だと思って廻った城跡よりも遥かに大規模な城郭であったことが、帰宅後、新たに調べて分かりました( ̄ー ̄;。
それによると、1995~96年の宮崎県教育委員会による縄張り調査の結果、従来考えられていた以上に広大な範囲に城域の拡大することが確認されたのだそうです。
それは次の3つの城から構成されるというものです(広義の松尾城)。
①従来、松尾城と認識され、私も同じ認識であった本東寺の西の丘陵(狭義の松尾城)
②旧高千穂鉄道高千穂線(現在廃線)の北側の尾根とその東の田部神社のある尾根
③本東寺及び松山神社・永田神社の丘陵
さらには、今後の縄張り調査によっては、その中間の尾根にまで拡大する可能性があるそうです。
縄張り構成的には、堀切・空堀・竪堀・土塁を多用する①がもっとも複雑でより近世的で、②はそれよりもやや造りが粗く、③はもっとも単純な構造になっているそうです。
幸い、今回の登城は最も複雑で近世的だとされる①の登城が目的でした。尤も、本東寺の駐車場を拝借して登城したので、②についても大方は見ることができました。
①は狭義の松尾城ともいえるわけですが、広義の松尾城の中での位置付けとして、主郭部に当たるようです。
①は山頂部に主郭を置き、北へ延びる尾根上に、二の丸・三の丸を設け、その間を大規模で見応えのある堀切で断ち切っています。そして、それぞれの曲輪下には幾つもの腰曲輪を設けた、かなり複雑な縄張りとなっています。
今回、広義の松尾城としては、全てを見て廻ることは出来なかったわけですが、①だけでも、当城が見応えのある城跡であることは分かりました。
惜しむらくは、あまりにも整備がされていないことです。過去には、①の主郭と思われる南端の曲輪が児童公園として遊具などが設置され、それなりに整備されていたようですが、現在は薮状態で、恐らく、町の人もほとんど訪れていないと思われます。
縄張り調査が最終的に終了したら、少しでも整備をして欲しいものです。尤も、たとえ整備されても訪れるのは私どものような奇特な人間だけでしょうから無理でしょうねえ(苦笑)。
(2013/11/29登城して)

ギャラリー

本東寺駐車場
登城時は知らなかったのですが、この本東寺の駐車場は③の城域です。車の向こうは切岸ですね。
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畑の中を進みます
駐車場の一段上になりますが、ここも勿論、②の城域で曲輪跡ということになります。奥の山が、①の狭義の松尾城跡です。それを目指して、畑の中の道を進みます。
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枡形虎口
しばらく歩いて来ると、枡形虎口が現れます。写真奥から歩いて来ました。写真では分かり辛いかもしれませんが、結構明確な枡形虎口です。
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段曲輪
枡形虎口からUターンするように廻りこむと、段曲輪が現れます。
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段曲輪上
段曲輪上は畑になっており、電流が流れる鉄線が張られています。また、畑の両側は急崖になっております。どうしようかと迷いましたが、町の方に城跡への道を尋ねた時に、畑になっているが入って行ってもいいようなことを仰っていたので、気が引けましたが、鉄線をまたいで畑へ進入し、奥へと入って行きました。
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堀切
畑を抜けると、堀底道のようになっていますが、三の丸北側の堀切です。両側は曲輪跡で、左側が三の丸です。そのまま進むと、それなりに広い道へ出ます。
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三の丸
三の丸も畑になっています。そして、やはり鉄線が張られています。
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三の丸と二の丸間の堀切
三の丸の西側下の道を南進すると、この二の丸との間の堀切が現れます。かなり大規模な堀切で見応えがあります。ここまで、期待外れの城跡と落胆していたのですが、この堀切を見て、一挙に期待が膨らみました(笑)。
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腰曲輪
堀切を入って行くと、腰曲輪へ出ました。この腰曲輪は、三の丸と二の丸下の腰曲輪になります。今は、柑橘系の果樹園になっています。
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土塁
腰曲輪の崖側には明瞭に残る土塁があります。この土塁は、右奥へ続いているのですが、強烈な逆光のため、こんな写真しか撮れませんでした(/。ヽ)。また、土塁左側は虎口のようです。
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主郭と二の丸間の堀切
二の丸の北側下から西側下へと廻りこむように進んで行くと、主郭と二の丸間の堀切が現れます。これまた、見応え充分です。左の階段を登って行くと二の丸、右奥の階段を登って行くと主郭です。
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主郭と二の丸間の堀切を外側から撮影
これぞ堀切といった感じです(*^_^*)。
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二の丸
二の丸には祠が建てられています。雑草も、それほど生えていないのですが、訪れる人が結構いるのでしょうか?
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主郭
主郭には、城址標柱や城主(土持氏)の記念碑が立っているのですが、強烈な藪です。東屋も建てられているのですが、利用する人はないでしょうね。
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城址碑(標柱)と土持氏記念碑
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滑り台w(*゚o゚*)w
主郭とその下の腰曲輪跡には滑り台などの遊具があり、もう一段下の腰曲輪は駐車場になっています。かつては、児童公園として、それなりに整備されていたようですが、現在は草茫々で、恐らく町の人もほとんど訪れていないんでしょうね。
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