日向 延岡城(延岡市)

千人殺しの石垣

「千人殺し」の石垣で有名な宮崎県下最大の近世城郭

別名

県城(あがたじょう)、亀井城

所在地

宮崎県延岡市本小路城山、城山公園
【アクセス】
延岡市役所の南西の山が城跡で、山麓南東部(市役所の南西約150m)に公園の無料駐車場があります。尚、駐車場と登城口は、北麓の方にもあります。
延岡市役所:延岡市東本小路2−1、電話0982-34-2111

所要時間

南西麓の駐車場から千人殺しの石垣下まで6~7分ほど、今回の見学時間は1時間10分でした。

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 城山公園
【遺構等】 曲輪、石垣、天守台、復元門、歴代城主の碑、説明板、遺構説明板

満足度

★★★★

歴史等

延岡城は、県(延岡)藩主・*高橋元種によって慶長6~8年(1601~03)にかけて築かれました。
元種は、松尾城(市内松山町)を拠点としていましたが、鉄砲の普及による戦法の変化に対応するため、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた丘陵に県内最大の近世城郭を築きました。当時は県城と呼ばれ、2つの河川を外堀とし、城内に内堀がつくられました。
慶長18年(1613)元種は改易され、磐城棚倉城主立花宗茂のもとへ預けられ、肥前国日之江の有馬直純が5万3千石で入封しました。康純の時、承応元年~明暦元年(1652~1655)には城の大改修が行われ、三階櫓、二階門櫓などが完成しました。
しかし、永純の時の天和2年(1682・天和3年説もあり)、火災のため三階櫓などは焼失し、以後三階櫓は再建されませんでした。
元禄4年(1691)、永純は無城地の越後国糸魚川に転封となり、さらに越前国丸岡に移封されました。その後、日向国初の譜代大名として、三浦明敬が下野国壬生から2万3千石で入封し、この頃から藩名に延岡が多く使用されるようになりました。
明敬は正徳2年(1712)、三河国刈谷に移封され、牧野成央が三河国吉田から8万石で入封したが、延享4年(1747)成央の死後、貞通が継いだが、常陸笠間へ転封となり、磐城平から内藤政樹が7万石で入封し、明治4年(1871)の廃藩置県まで8代続きました。
尚、日向国に初めて近世城郭を築いた高橋元種ですが、全国的にはあまりよく知られていないと思いますが、「立花宗茂・八尋舜右著(PHP文庫刊)」を読んで、以前から興味を持っていたので以下にまとめてみました。
『「現地説明板」、「日本城郭大系16」参照』


*初代城主高橋元種について
元種は、筑前秋月城主・秋月種実の次男として生まれたが、豊前国香春岳の領主高橋鑑種の養子となった。養父の鑑種は大友宗麟の一族一万田氏の出身であったが、宗麟が兄を罪あり(恐らく無罪)と称して殺し、その妻を奪い取ったのを憎み謀叛を起こしたが敗れて領地を奪われて香春岳に追われた。
大友氏は、日向耳川の合戦で島津氏に大敗してからは急に勢力が衰えた。これにより高橋氏は力を得て、島津氏と連合して大友氏を攻めた。
大友氏に救いを求められた豊臣秀吉は、島津氏に和睦を命じたが、島津氏が従わなかったので九州征伐となった。高橋氏は島津氏に味方して秀吉軍と戦ったが、秀吉の大軍を見て敵し難いことを悟り、僅か1日戦っただけで降参したので、秀吉は喜んで日向松尾5万3千石を与えた。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、初めは西軍につき、兄の種長と共に美濃大垣城に籠城したが、9月15日の本戦で西軍が敗れると水野勝成の勧めで東軍に内応した種長に従い、戦後も所領を安堵された。
しかし、石見津和野城主坂崎出羽守直盛の甥の水間勘兵衛が出羽守の家臣を討ち果たして出奔するという事件が起こった。出羽守は幕府に訴えたので、幕府は全国に手配して探索した。勘兵衛は伊予宇和島城主富田信高の内室の従兄弟であった関係から宇和島に落ちて隠れたが、信高は扶持を与えて肥後熊本城主加藤忠広に送った。忠広はさらに元種に頼んだ。元種は勘兵衛を高千穂に匿したが、慶長18年(1613)事が露見し、富田氏と高橋氏は改易を命ぜられた。そして、元種の身柄は長男・左京と共に陸奥棚倉城主立花宗茂にお預けの処分となった。
尚、高橋鑑種の養子になったのが元種で、鑑種の長男が立花宗茂(立花家を継いだ)で、二人は血縁はないが、両人とも高橋家の子で、一方は高橋右近大夫、他方は立花左近大夫と称し、並び称される間柄であったという。
『「日本城郭大系16」、「立花宗茂・八尋舜右著(PHP文庫刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

延岡城は、天守台、本丸、二の丸、三の丸からなる本城(城山公園)と、藩主の居宅である西ノ丸(内藤記念館・亀井神社)の2郭で構成されています。
残念ながら水堀は埋められてしまい跡形もありませんが、見事な石垣遺構が残っています。中でも、「千人殺し」と呼ばれる二の丸の東にそびえる高さ22m・総延長約70mの本丸高石垣は見事で、当城の最大の見どころでしょう。その姿に見惚れてしまい、ついつい何枚も写真を撮ってしまいました。
そして、この高石垣沿いの石段を登り、本丸へと向かう枡形虎口の石垣も見応えがあります。
また、天守台から眼下に大瀬川と延岡市街、その向こうに日向灘を望む眺望は南国日向の国らしくのびやかで、しばらくそこに佇んでいたい気持ちになるほどです。
(2013/11/29登城して)

ギャラリー

延岡城古地図(現地説明板より)
延岡城は、天守台、本丸、二の丸、三の丸からなる本城と、藩主の居宅である西ノ丸の2郭で構成されています。
00延岡城古地図

延岡城全景
城跡の南東麓の駐車場前から撮ったものです。駐車場と登城口は、他にも北麓の方にもあります。

01延岡城全景

模擬冠木門と歴代城主碑
駐車場のすぐ脇に模擬冠木門が建てられ、その奥に延岡城の歴代城主の石碑が立っています。この門をくぐって登城です。
03模擬冠木門

三の丸跡
冠木門から城の東側を廻って登って行くと5分程で三の丸跡へ着きます。
05三の丸

石御門跡
三の丸の南東に石御門跡があります。
07石御門

千人殺しの石垣が見えて来ます
三の丸跡から西の方へ歩いて行くと、正面に壮大な「千人殺し」の石垣が見えて来ます。右手前は、北の方へ突き出した細長い曲輪で出丸のような曲輪です。そこには、当地出身の若山牧水の歌碑があります。
21千人殺しが

北大手門(復元)
千人殺しの石垣へ向かって行くと、右手下に復元された「北大手門」が建っています。
25北大手門

内藤家墓所
北大手門の横には、最後の藩主内藤家の墓所があります。
28内藤家墓所

千人殺しの石垣①
この石垣は敵が攻め入った時に一部をはずすと崩れ落ち、一度に千人を殺すと言い伝えられているそうです。おー怖ッ。
31千人殺し

千人殺しの石垣②
それにしても壮大な石垣です。以前から見たかったのですが、やっと願いが叶いました(*^_^*)。
33千人殺し

千人殺しの石垣③
角部を真下から撮ってみました。少し膨らんで張り出してきて、今にも崩れそう? 否、綺麗な扇形を保っている?
35千人殺し1 35千人殺し2

千人殺しの石垣④
すっかり見惚れてしまい、ついつい何枚も撮ってしまいました。当写真は二の丸から撮ったもので、本丸へは、右に見える坂道(石段)を登って行きます。
37千人殺し

二の丸跡
本丸へ登る坂道の途中から撮ったものです。中央奥に見える石垣は櫓跡です。
39二の丸

西出丸跡
坂道を登り切ると、右手には西の方へ細長く延びる曲輪があります。先端には、二重櫓が建っていました。当写真は、本丸虎口から撮ったものです。
45出丸

本丸虎口付近の石垣
西出丸から本丸虎口付近の石垣を撮ったものですが、この付近の石垣の光景もなかなか見応えがあります。
51本丸虎口

本丸枡形虎口(二階門櫓跡)
本丸へ入る、この虎口もなかなかかっこいいです。ここには、二階門櫓があり、大扉を開いて本丸へ入城した。
53本丸二階櫓門跡

本丸跡
本丸跡には、最後の延岡藩主内藤政挙の銅像が立っている。東方奥(写真左奥の丘)は天守台です。
55本丸

天守台
天守台は山頂にあるが、天守台というよりは天守曲輪と言った方が合っているような気がします。また、ここに天守は建っていなかったようで、西南戦争後に鐘楼が建てられて時を告げたという。
61天守台跡

天守台の枡形虎口
天守台の北側には枡形虎口が残っています。
63天守台虎口

天守台からの眺望
天守台から眼下に大瀬川と延岡市街、その向こうに日向灘を望む眺望は南国日向の国らしくのびやかで、しばらくそこに佇んでいたい気持ちになるほどです。
65天守台からの眺望

三階櫓跡
天守台東側下には、天守代りの三階櫓跡の石垣が残っています。三階櫓は、天和2年(1682・天和3年説もあり)、火災のため焼失したが再建されませんでした。
11三階櫓跡3

三階櫓跡石垣
13三階櫓跡2

山麓の石垣群
下城は、北大手門から出て、山麓沿いに時計回りに北側を通って駐車場へ向かいましたが、山麓にも、算木積みを備えた石垣をはじめ、立派な石垣群がありました。どうやら、こちらが往時の大手道であったのではないでしょうか?
石垣

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