僅かに残る城址石垣
伊達氏の押さえの城の水堀は難工事で人柱の老人名から丹後沢と呼ばれる
別名
龍ケ城、飯野城
所在地
福島県いわき市平旧城跡
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】住宅地、丹後沢公園
【遺構等】石垣(一部)、水堀跡(丹後沢)
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2006/03/05
歴史等
磐城平は最初、岩城氏の所領であったが、天正18年(1590)、常陸太田城の太守佐竹義重の子貞隆が養子入りし当主となった。
関ヶ原合戦で、実家佐竹と共に中立を守り、平領は没収されるが川中島1万石を経て、子の吉隆のとき、出羽亀田(秋田県岩城町)2万石へ移った。
代って、慶長7年(1602)鳥居忠正が父・元忠の伏見城での功により、10万石で磐城平藩に入封した。忠政は、翌年の慶長8年(1603)、それまで大館城から、渓谷に囲まれた物見ケ岡の天険の地に移ることを決め、築城を開始し、12年の歳月をかけて梯郭式平城を完成させた。天守は造られず本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。
この城の主目的は仙台藩伊達氏の押さえにあった。この時、本丸北方の天然の沢を利用して水堀にする工事は、なかなか進捗しなかった。何度も堤防を築くが、その都度失敗した。そこで、管波丹後という95歳の老人を人柱に立てたところ、堤防は崩れることなく成功した。この水堀跡は今でも「丹後沢」と呼ばれている。
元和8年(1622)、鳥居氏は山形20万石へ転封となり、そのあと上総佐貫より、内藤政長が7万石で入封した。内藤家の治政は長く、6代125年に及んだ。以後、井上氏、安藤氏へと移り、慶応4年(1868)戊辰戦争において奥羽越列藩同盟に与した磐城平藩は消滅した。建物は戊辰戦争と第2次大戦で焼滅し、石垣の一部が残るだけである。
『「日本の名城・古城ものしり辞典(主婦と生活社刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」参照』
現況・登城記・感想等
「旧城跡」という如何にも「城址でございますと」いう町名を頼りに城址を探すと、いわき市平市街地から真正面に頂上が平らな絶壁が迫って見えてきたのですぐ分かった。
しかし、高台上に到着すると、城跡は一部の石垣を除いて跡形もなく住宅密集地となっており城址の雰囲気は全く無いに等しい。
ただ、石垣跡が急な坂道を登りきった平らな所にあったが、それが本丸西側の中御門の石垣跡であり丹後沢公園となっている。
そこからは、 いわきの市街地が眼下に拡がっている。
また、僅かに残るその石垣の奥も絶壁になっており、その下は水堀跡らしい地形が綺麗に整備されていたが、鳥居忠政が築城の際に堰き止めて築いたという内堀(丹後沢)で、この地形を見ると、ここに築城したのも納得できる。
遺構が僅かしか残ってはいない上、説明板等もないのは何とも寂しいかぎりである。
尚、本丸への北側からの虎口櫛形門と塗師櫓台の石垣が残っているとのことだが見逃してしまったのは最悪デシタ(;>_<;)。
(2006/03/05訪城して)