磐城 大館城(いわき市)

二の曲輪に立つ「飯野平城跡-大館-」の石碑

代々岩城氏の居城も関ヶ原合戦で西方につき没収・廃城

別名

飯野平城、大館

所在地

福島県いわき市好間町下好間字向山・大館

形状

平山城

現状・遺構等

現状:山林、住宅地
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑

満足度

★★☆☆☆

歴史等

室町時代、磐城地方の豪族達は互いに力を競い合っていた。
その中で、18代岩城隆忠は居城を長友(いわき市四倉)から白土(いわき市平)に移し、統一支配を目指して長子・岩城親隆と共に、一方の雄・ 岩崎氏(島倉城主)を滅ぼした。さらに、親隆は北進して楢葉郡(双葉郡南部)を治めた。
その後20代常隆が文明15年(1483)磐城・磐前両郡の郡境にあたるこの地にあった飯野平城(大館)を築き、居城を白土城から移した。 城内には菩提寺として曹洞宗青雲院を、必勝と平和を願って真言宗長命寺を創建する。
同16年(1484)常隆は常陸国(茨城県)に進攻し、守護・佐竹家を服従させて、常陸の北部(北茨城市・高萩市・里美村)を領有した。
次いでその子・岩城盛隆は、永正7年(1510)白河郡の領主白川家を攻略した。ここに、岩城氏は陸奥・下野・ 常陸の三国に強大な勢力圏を築き、戦国大名の居城として「飯野平城」はその中心となった。
同11年(1514)盛隆・由隆・政隆父子は下野国宇都宮に進攻したが勝機を逸した。この戦いに勝利していれば、 岩城氏の運命も変わっていたかもしれない。以降岩城氏は、重隆・親隆・常隆・貞隆と続いていた。
しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で岩城氏は徳川方に味方しなかったため、同7年(1602)5月、所領を没収された。 同年11月に、徳川家譜代の鳥居忠政は旧岩城領を与えられ、新たに城の北東、物見ヶ岡に磐城平城を築いた。
『城跡の碑より』

訪城日

2006/03/05

現況・登城記・感想等

49号線からの登城口を登った所に墓があり車を停めて登城した。登って行くと、結構広い削平地があり、大館城址の石碑があった。 そこからさらに奥に進んで行くと、2段になった削平地があった。おそらく本丸跡であろう。そこからの眺望は、眼下に町並みが、 遠くには山々がよく見える。削平地はよく整備されているが、他の場所へは入れないようで、土塁や堀切等が分からなかったこともあるが、 戦国時代の城としては比高もあまり高くなく、それほど天険の地には見えなかった。
(2006/03/05登城して)

ギャラリー

大館城址の遠景

登城口(49号線から)

二の曲輪
二の曲輪には説明文が刻まれた「飯野平城跡-大館-」の石碑が。右奥の石段は本丸への道。

本丸跡からの眺望

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コメント

真室健二(2013/08/09)

私は子どもの頃すなわち昭和36年頃までは、平、飯野八幡宮の裏手に当たる六人町に住んで、良く八幡様の境内で遊んでいました。現在は神奈川県座間市に住んでいます。 今回大館城(いわき市)のインターネットを見て、過去に岩城常隆(19代)について調べたことを思い出しました。なぜかというと岩城常隆五輪の塔が私の住んでいる座間市のお寺、心岩時境内の樹木に囲われた一角に五輪の塔がひっそりと建っており、座間市の重要文化財のひとつになっていたからです。 五輪の塔に関する資料はほとんどなかったのですが、岩城(いわき)と言えば子どもの頃に住んだところかな?しかも殿様だったとわかった時点でもしかしてという観点から調査を始めたのがきっかけでした。
常隆は1580年秀吉へ会うため小田原に行き急病で亡くなり・・・・

タクジロー(2013/08/14)

真室健二さま
当サイトへご訪問戴きありがとうございます。
岩城氏(19代常隆)の五輪の塔が座間市に存在するのをお調べになったとは驚きです。
今後も、当サイトへ訪問戴き、いろいろお教え下さるのをお待ちしております。

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