塩見城主郭の東側の曲輪前に立つ城山公園の碑
日向一円を支配した伊東氏48城の1つで、日向三城の一つ
所在地
宮崎県日向市塩見
【アクセス】
国道327号「中原信号」を800m程西進して右折し、すぐを左折します。200m程西進して「城山霊園」を過ぎ、更に「水月寺」を右手に通り越して200程西進すると、道路右手に説明板があり、その先から山へと上がっていく急坂道があります。この山頂の城山公園が城跡で、山上の公園まで車で登って行けます。公園手前に駐車スペースがあります。
水月寺:塩見2393、電話0982-52-2767
所要時間
今回の見学時間は10分でした。
形状
山城(標高60m)
現状・遺構等
【現状】 城山公園
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2013/11/30
歴史等
南北朝時代(1331~91)、土持氏が築いたと伝えられ、日知屋城、門川城と共に「日向三城」と呼ばれた。
その後、都於郡伊東氏の支配下に入り、綾民部左衛門義恒が居城した(現姓細川氏)。
天正の頃は、伊東一族の右松四郎左衛門が塩見地頭として入城したが、天正5年(1577)伊東氏が豊後大友氏のもとへ敗走すると島津氏の持城となり、一門の吉利忠澄が城主として君臨した。
その後、綾民部左衛門義恒の嫡男義政と右松四郎左衛門の両族は、大友軍に加わり島津家の重臣北郷蔵人主従を壊滅したが、天正6年(1578)11月12日の「日向耳川の合戦」で両名とも戦死した。
天正15年(1587)、秀吉の九州平定後は、門川城・塩見城・日知屋城の3城は県城(延岡城)主高橋元種の領地となり、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。
『「現地説明板」、「慰霊碑」ほか参照』
現況・登城記・感想等
塩見城跡は、日向市教育委員会や宮崎県埋蔵文化センターなどによる発掘調査がされ、さらには縄張図の作成もされた。
それによると、塩見城は山頂にある主郭を中心とし、周囲に多くの段曲輪を備えた大規模な山城だったようです。
そして、地表面観察では確認出来ない曲輪の存在や多数の柱穴、さらには堀切や竪堀、石積み等々が発見され、陶磁器片などの遺物も出土したようです。
現在は、多くが埋め戻されているようで、城山公園として整備され、主郭とその周辺の腰曲輪や土塁、虎口などが確認できるだけです。
(2013/11/30登城して)
ギャラリー
塩見城址遠景
水月寺の前から撮ったものです。ここからだと比高20mほどの山ですが、市街からだと比高50m以上あるでしょう。
主郭の東側の曲輪
城山公園へは、かなり急な坂道ですが、山頂部まで登って来ることが出来ます。そこは既に主郭のすぐ東側の曲輪になります。正面奥に土塁が見え、やや左側が主郭への虎口です。
主郭東側の土塁と虎口
土塁の高さは2mほどあります。
主郭
主郭は、南北に細長い曲輪で、慰霊碑が建てられています。そして、何と「教育勅語40周年記念」と刻まれた大きな石碑が立っていました(苦笑)。
腰曲輪
主郭の南西部には、腰曲輪へ下りる虎口があります。
櫓台?と虎口
当写真は主郭南西下の腰曲輪から主郭への虎口を撮ったものです。虎口左側の土塁はかなり分厚く、櫓が建てられていたと思われます。