本丸跡に建つ模擬城館(歴史資料館)
都城島津氏の本城
別名
都城
所在地
宮崎県都城市都島町本城、城山公園
形状
平山城
現状・遺構等
現状:城山公園、都城歴史資料館
遺構等:曲輪、城壁、空堀、模擬櫓門、模擬城館(歴史資料館)、説明板
満足度
★★☆☆☆
歴史等
都城島津氏は、島津宗家の第4代忠宗の六男資忠を始祖とする。南北朝の争乱に武家方として活躍し、その軍功により文和元年(1352)
将軍家より日向国荘内北郷の地300町を与えられ、この地に移り住み、郷名をとって「北郷」と名乗った。戦国時代、
第8代忠相は都城盆地をほぼ統一し、第10代時久に至って島津家一門の中で最大の勢力を形成した。
豊臣政権の末期・太閤検地後、都城は伊集院忠棟の支配するところとなり、北郷氏は祁答院(鹿児島県宮之城町)へ移されたが、
まもなく復された。徳川政権下でも領地は減少したものの、島津の私領では最大の領域を誇った。また、第17代忠長の時、
北郷姓から島津姓に復した。
都之城は、第2代北郷義久が永和元年(1375)に築城し、「都之城」と名付けたと云われており、これが後に当地の地名となった。
はじめは小規模な城であったが、戦国時代に城域が拡大され。総面積25ヘクタールとなり、11の曲輪からなる壮大な城になった。最盛期には、
6万9千石の領内に12の支城を置いて、都城盆地をほぼ支配していたが、元和元年(1615)第12代忠能のとき、
幕府の一国一城令により廃城となった。
現在は、城域の中央部をJR日豊本線が貫通しているが、本丸を含む5つの曲輪が残っており、
本丸跡には城風の都城歴史資料館が建てられている。
『現地説明板、パンフレット等参照』
訪城日
2006/07/29
現況・登城記・感想等
小高い丘の上に城郭風の建物(都城歴史資料館)が見えてくる。駐車場からは、模擬櫓門をくぐっていくと、本丸と西城(挟野現在神社)
の間にはっきりした空堀がある。
本丸跡は庭が実にきれいに造られており、先ほど見えた城郭風歴史資料館がある。虎口跡等も残っているが、あまりにもきれいに再現?されて、
私にはかえって分かりづらかった。尤も、あまりの暑さのせいで、絵図と見比べる元気もなかったせいの方が大きいかも。
それほど高くもない丘の上の城であるが、36℃という酷暑の中を歩き、心身共に疲れていたが、何と今日はラッキー!
本丸跡に建てられた茶室にて、お茶をたててもらえるとのこと。それも月に2~3回ほどのサービスだそうだ。疲れが吹っ飛んだ感じがした。
単純!!
(2006/07/29登城して)
ギャラリー
都之城の図
丘の上の都之城の城郭風歴史資料館
模擬城門(丘の上が本丸)
本丸と西城(挟野現在神社)の間の空堀
模擬城館(都城歴史資料館)
下手な天守閣を建てられるよりいいかな。
きれいに整備された本丸跡の庭と茶室(静山亭)
茶室(静山亭)にて美味しいお茶をたてて頂いた。それも月に2~3回ほどのサービスだそうだ。
疲れが吹っ飛んだ感じがした。単純!!
門跡
2つのマウンド直下の位置に長径2.4m、短径1.2mの楕円形の柱穴2基が1.
6mの間隔で並んで発掘された。この曲輪の西端に位置する門跡と考えられる。
虎口
曲輪の東側に設けられた入口で。曲輪内に左右両方向に抜ける特殊な形態の枡形虎口であり、
登り口の路面には門柱を立てたと思われる柱穴と石を2列に敷いた階段状の遺構が見つかっている。
腰曲輪跡(左)と建物跡(右)
腰曲輪跡は草茫々で写真では分かりづらいが生で見るとよくわかる。
建物跡は曲輪の南端に位置することから物見櫓と考えられる。