内城跡に建つ大龍小学校
三州(薩摩・大隅・日向)統一、及び九州一円制覇への島津宗家50年間の本城
読み方
うちじょう
別名
御内(みうち)、水上城、大龍寺城
所在地
鹿児島県鹿児島市大竜町11-4、大龍小学校
大龍小学校が城跡だが、駐車場は無い。
大龍小学校:大竜町11−44、099-247-2016
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 大龍小学校
【遺構等】 石碑、説明板
満足度
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訪城日
2012/11/17
歴史等
内城は、島津氏15代貴久が、14代勝久の跡目相続を争った薩州島津家実久を破って、鹿児島周辺の防衛体制が一応整った段階に至って、清水城に代えて築城したものである。
貴久は、天文19年19年(1550)12月に一宇治城から内城へ移り、薩摩宗家の本城とした。
島津氏は、慶長7年(1602)に鹿児島城(鶴丸城)に移るまで、この内城に居を構え、三州(薩摩・大隅・日向)の統一を成し遂げ、さらに九州一円の制覇に乗り出した。
鹿児島城(鶴丸城)に移って以後、内城跡には文之和尚のために大龍寺が建てられた。
そして、明治17年(1884)、大龍寺の跡地に大龍小学校が開設された。
『「日本城郭大系18」、「大龍寺跡説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
内城跡は、大龍小学校の敷地となっており石碑が建てられているとのことだったが、当日は、何らかの行事があって、門のところに父兄が大勢いて入り辛かったので、門の写真を撮って戻る破目に(/。ヽ)。
一方、校門近く、学校の外側には大龍寺跡の石碑が立ち、開基の文之和尚と大龍寺についての解説も・・・。それによると、大龍寺の名は貴久(大中)と義久(龍伯)の号から名付けられたということでした。
昨今、とかく小学校内へは入り辛いものだ。城址碑も学校の外側に建ててほしいものだ。
(2012/11/17訪れて)
ギャラリー
大龍寺跡の碑と説明板