平松城跡である重富小学校脇から岩剣城跡を望む
島津義久・義弘・歳久の初陣「岩剣城の戦い」の城、初めて鉄砲が使用された
読み方
いわつるぎじょう
所在地
鹿児島県姶良市平松
【アクセス】
重富小学校の西約400mにある見るからに峻険な山が城跡。登城口は、国道10号線と県道57号線が交わる「重富郵便局前」から、県道57号線を北西へ約1kmほど行くと、左手に登山口の案内板がある。
形状
山城(標高225m、比高約150m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、空堀、石垣、標柱、説明板
満足度
?????
訪城日
2012/11/17
歴史等
岩剣城の創築に関しては定かではないが、室町時代の天文年間(1532~55)に渋谷氏一族の祁答院(けどういん)良重が居城し、薩隅の国境付近を押さえ、島津氏の三州(薩摩・大隅・日向)統一の障害となっていた。
天文23年(1554)、蒲生城の蒲生範清は、渋谷氏一族・菱刈氏・相良氏と連合して、島津氏と友好関係にあった肝付兼盛の加治木城を攻めた。
兼盛を救おうと駆け付けた島津貴久は同族の祁答院良重の拠る岩剣城攻めを開始した。天然の要害である岩剣城は容易には落ちなかったが、20日間の攻防の末、城主良重の子重経らが戦死すると勝敗がつき落城し、ほぼ同時に加治木城の囲みも解けた。
この岩剣城の戦いで、寄せ手の島津忠将の軍が、我が国で初めて鉄砲を使用したといわれる。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになったが、城地が狭隘なのと、山頂から麓までの道があまりにも険しく、日常生活に不便であったので、山麓に新たに平松城を築き、普段はここに居住した。
『「日本城郭大系18」、「現地説明板」ほか参照』
現況・登城記・感想等
岩剣城跡は、その名が示すとおり峻険な山容をしている。
島津義久・義弘・歳久の3兄弟の初陣の城でもあり、今回の鹿児島の城めぐりで、是非、登城したい城の一つであったが、朝からの激しい雨(/。ヽ)。
下調べによると、道は急な上、かなり荒れているとのことで、大雨のあとは、道もぬかるんでおり、とても登城は無理なようなので、山麓から見上げるでけで断念せざるを得なかった(/。ヽ)。
(2012/11/17)
ギャラリー
峻険な山容をした岩剣城跡
激しい雨のあとで、登城は断念したが、せめて写真だけでもと思い、近くまで行ってみた( ̄ー ̄;。
重富麓の武家屋敷の垣根越しに