城跡(右)下を通る道路から
地元豪族大蔵氏(のちに加治木氏)が築城、伊地知氏、肝付氏、島津氏へと変遷
所在地
鹿児島県姶良市加治木町反土
形状
山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、空堀、土塁
満足度
?????
訪城日
2006/07/29
歴史等
地元の豪族である大蔵氏によって築かれたと伝えられるが、築城時期等は不明である。
平安時代の天暦元年(947)、大蔵氏は加治木の郡司となった。平安時代中期の大蔵氏当主・大蔵良長は娘婿に関白・藤原頼忠の三男・藤原経平を迎えた。経平はそのままこの地に土着し、「加治木氏」を名乗った(加治木氏家祖)。
建久9年(1198)、加治木親平が鎌倉幕府の御家人になった。
室町時代の明応5年(1496)加治木氏(久平)が島津忠昌に攻略され阿多(南さつま市金峰町宮崎)に移され、伊地知重貞が地頭になる。
大永7年(1527)伊地知氏が島津氏に亡ぼされ、肝付兼演が地頭になったが、天文11年(1542)肝付兼演と島津氏が抗争、天文18年(1549)肝付兼演が島津貴久に降伏した。
文禄4年(1595)肝付氏は喜入(鹿児島県揖宿郡喜入)に移され、加治木は秀吉の直轄地となるが、慶長4年(1599)、朝鮮の役の恩賞で加治木が島津氏に返された。
慶長12年(1607)、島津義弘は突然10年居住した帖佐館から平松城、そしてこの加治木城へ移ってきた(一説による)。
義弘は当初加治木城を大規模に改築して住むつもりであったが、結局その麓に加治木館を築いて住むことになった。その後の加治木城はこの加治木館の「後詰めの城」となり、実質的にこのとき廃城となった。義弘死後、息子の島津家久は加治木館に「西の丸」を増築した。
その後、寛永8年(1631)に加治木館は家久の三男・島津忠朗に与えられ、「加治木島津家初代領主」となり、明治まで「加治木島津家」の居所となった。
『「郷土史年表(加治木町郷土館)」、「フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)」参照』
現況・登城記・感想等
場所がわからず、先に「加治木館」を探したところ、加治木町の郷土館が見つかり館長さんに親切に教えてもらった。
加治木城跡は、今では一部が畑になっているほかは、入山も困難なようである。おまけに今日は真夏の真っ盛りで36℃もの暑さである。とても藪こぎはできそうにないので、道路脇から写真に納めるだけで諦めることにした。
館長さん、その節は、本当にありがとうございました。懇切丁寧に教えて頂いただけでなく、郷土史年表ほか資料まで頂いてしまいました。
今回の大分から宮崎、そして鹿児島の城めぐりの旅行では、各地の皆さんの親切な応対や小学生の元気な挨拶に感激した。最近の東京では考えられないですね。
(2006/07/29)
ギャラリー
加治木城下からの桜島と蔵王岳
錦江湾の向こうの桜島の雄大な姿と、蔵王岳の天狗の鼻が上に突き出したような奇妙な形(もっと下から見るとさらに細長い)の対照的な姿が面白い