大隅 帖佐館(姶良市)

帖佐館南東隅から南面にかけての石垣

文禄の役から帰国した島津義弘が築いて10年間居住した館

読み方

ちょうさやかた

別名

御屋地(おやち)

所在地

鹿児島県姶良市鍋倉字都
【アクセス】
帖佐小学校の西側の道を約300mほど北上した突き当たりにあり、現在は稲荷神社の境内となっている。
帖佐小学校:姶良市鍋倉663、電話0995-65-2036

形状

現状・遺構等

【現状】 稲荷神社
【遺構等】 曲輪、石垣、石塁、大手門礎石、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2012/11/17

歴史等

文禄4年(1595)、朝鮮出兵(文禄の役)から帰国した島津義弘は、平山城の麓・帖佐鍋倉宇都に居館を築き、栗野城(姶良郡湧水町)から移った。館の造営は、重臣新納旅庵が指揮し、蒲生地頭・阿多長寿院盛淳がその任に当たり完成させた。
義弘は、その後、2度目の朝鮮出兵(慶長の役・1597~98)を終え、さらに慶長5年(1600)の関ヶ原合戦から生還したあと、桜島にて謹慎し、翌6年(1601)秋頃帖佐館へ戻った。
そして、慶長11(1606)年、平松城へと居城を移した。
慶長12年(1607)には、加治木館へと居城を移し、以後、外孫の豊州家島津久賀を帖佐の地頭としている。
『「日本城郭大系」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

現在、帖佐館跡には稲荷神社が祀られている。
当稲荷神社建立の由来は、島津義弘の2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の際に、島津軍を救ったキツネを祀ったことに始まるそうだ。
帖佐館跡の敷地の広さは、約200m平方ほどで、周囲をめぐる苔むした野面積みの石垣が歴史を感じさせてくれる。
南面の石垣の中には、「長寿院御加勢石」という巨石(鏡石)が見られる。造営の際に、蒲生地頭阿多長寿院盛惇が真っ先に運ばせたという巨石である。
大手門は東側に設けられ、両脇にホゾ穴を穿うがった大手門の礎石がある。ここにあった大手門は、その後、出水麓のお仮屋門として移築され現存している。
(2012/11/17訪れて)

【稲荷社の由来】
島津義弘の2度目の朝鮮出兵(慶長の役)で、泗川に新塞城を築いて守っていたが、20万の明の大軍に攻囲された。この時、2匹のキツネが火薬を抱いて明軍の中に突入・自爆し、明軍を混乱に陥れ、これに乗じて島津軍は明軍を撃退した。義弘は、キツネの出現を稲荷社の加護によるとし、そのキツネの骨を持ち帰り、平山城の支城高尾城に祀った。その後、高尾城の社地が崩壊の恐れがあるということで、文政10年(1827)、この帖佐館跡に移されたという。
(稲荷神社説明板より)

ギャラリー

帖佐館(現稲荷神社)へ
帖佐館跡には、今は稲荷神社が祀られている。当稲荷神社建立の由来は、島津義弘の2度目の朝鮮出兵(慶長の役)の際に、島津軍を救ったキツネを祀ったことに始まるそうだ。
帖佐館稲荷神社

南面の石垣
帖佐館跡周囲には石垣が良好に残っている。そして、南面の石垣の中には、「長寿院御加勢石(写真中央)」という巨石(鏡石)が見られる。
南面石垣

長寿院御加勢石
「長寿院御加勢石」とは、造営の際に、蒲生地頭阿多長寿院盛惇が真っ先に運ばせたという巨石(鏡石)である。島津義弘の「羽織掛け石」とも言われるようだが、謂れは知りません。
鏡石

南東部隅の石垣
隅の石垣は、まだ算木積みにはなっておらず、カーブを描いている。まだ、この頃、島津家には算木積みの技術がなかったのだろうか?
帖佐館南東隅石垣

大手門跡
大手門は東側に設けられていた。両側の苔むした石垣が歴史を感じさせてくれる。
大手門

大手門のホゾ穴
両脇にホゾ穴を穿うがった大手門の礎石がある。ここにあった大手門は、その後、出水麓のお仮屋門として移築され現存している。
大手門ほぞ石

石碑
大手門を入って、右手に立派な城址碑が建てられ、「維新公邸址之碑」と刻まれている。
城址碑

石塁
館跡周囲には石塁がめぐっている。
石塁

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント