大隅 平松城(姶良市)

平松城跡の長く延びる石垣

岩剣合戦後に島津義弘が築いた城、幕末には久光も居城した

所在地

鹿児島県姶良市平松5636(重富小学校の敷地が城跡)
重富小学校:姶良市平松5636、電話0995-65-2115

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 重富小学校
【遺構等】 曲輪、石垣、井戸、標柱、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2012/11/17

歴史等

戦国時代の天文23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生(かもう)・祁答院(けどういん)方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。
この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかしながら、山頂から麓までの道は大変険しく、日常生活には不便でしたので、麓のこの地へ館を築きます。これが平松城の始まりです。
義弘は慶長5年(1600)の「関ヶ原の合戦」直後にもしばらく在城し、慶長10年(1605)から翌年にかけて帖佐館からこの城に移り、加治木館へ移るまでの居館としました。その後、当城には島津義弘の夫人や娘の御屋地様が晩年を過ごしています。
江戸時代中頃の天文2年(1737)、藩主島津継豊は、弟の忠紀に鎌倉時代以来の名家である越前島津家を再興させます。翌年には帖佐郷から脇元村・平松村・船津村・春花村・触田村を割いて「重富郷」と名付けます。これ以後、平松城は越前(重富)島津家の領主の館(お仮屋)となり、一帯には麓(重富麓)と呼ばれる家臣団の屋敷地が計画的に整備されていきます。
島津久光も、若い頃、越前家第20代当主として、この平松城(お仮屋)に住んでいます。
明治維新後、この地には重富村の役所や学校が置かれます。
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

平松城跡には、現在、重富小学校が建っているが、小学校周囲に長く延びる野面積みの石垣は、良好に残っておりなかなか見応えがある。
正門前の広くて長~い道路は馬場跡で、幅11m、長さ約275mもあるそうだ。
小学校の背後(西)に聳える、島津義久、義弘、歳久の初陣の城で、その名のとおり峻険な岩剣城跡が印象的だ。
(2012/11/17訪れて)

ギャラリー

長く延びる石垣と馬場跡
長く延びる石垣は、良好に残っておりなかなか見応えがある。また、その前の広くて長~い道路は馬場跡で、幅11m、長さ約275mもあるそうだ。
IMG_6729

野面積みの石垣
石垣は野面積みである。当写真は、北隅の石垣であるが、まだ算木積みにはなっていない。やはり、近畿地方と較べると石垣の進歩は遅かったのだろう。
IMG_6726

小学校正門
小学校正門の門柱は、以前鹿児島県庁の正門として使用されていたものを移築したものだそうだ。
IMG_6720

背後に聳える岩剣城跡
背後(西)に聳える、島津義久、義弘、歳久の初陣の城で、その名のとおり峻険な岩剣城跡が印象的だ。写真左の石垣は、小学校北隅の石垣。
IMG_6725

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント