館跡に鎮座する護国神社。石垣上には加治木島津家館跡の碑(左上)
島津義弘が築城し、生涯を終えた館
所在地
鹿児島県姶良郡加治木町仮屋町250
形状
館
現状・遺構等
現状:加治木高校(中の丸・東の丸)、柁城小学校(西の丸)、加治木町郷土館・護国神社
遺構等:曲輪、石垣、石柱
満足度
★☆☆☆☆
歴史等
慶長12年(1607)、島津義弘が10年居住した帖佐から平松(帖佐・平松共、現在の鹿児島県姶良郡姶良町)、
そして加治木城へ移ってきた
(一説による)。
義弘は当初加治木城を大規模に改築して住むつもりであったが、
結局その麓に加治木館を築いて住むことになった。その後、義弘は「中の丸」「東の丸」という2区画からなる館を築き、元和5年(1919)
にここで生涯を終えた。
義弘死後、息子の島津家久は加治木館に「西の丸」を増築した。その後、寛永8年(1631)に加治木館は家久の三男・島津忠朗に与えられ、
「加治木島津家初代領主」となり、その後は明治まで「加治木島津家」の居所となった。
『フリー百科事典ウィキペディア
(Wikipedia)、郷土史年表(加治木町郷土館)より』
訪城日
2006/07/29
現況・登城記・感想等
場所が分からずうろうろしていたが、たまたま加治木郷土館が見つかり入館したら、館長さんが非常に親切に応対してくれて、
懇切丁寧に教えてくれた。
現在、加治木高校・柁城小学校・加治木町郷土館・護国神社のある一帯が加治木館址であるとのことである。そう云われれば、
それとなく往時の城下町の風情が残っているような気がする。護国神社の周りのや近くに少し残っている石垣は、
江戸時代末期に積み直されたものだそうである。(2006/07/29訪問して)
ギャラリー
加治木館の模型(加治木郷土館に展示されている)
加治木島津家館の石碑(護国神社入口の石垣上にある)
石垣(護国神社の周りや他に少し残っている)