エジンバラ城(スコットランド、エジンバラ)

荒々しい岩の上に築かれた城壁や砲台等を見上げる

イングランドの相次ぐ攻撃に持ちこたえてきたスコットランドを代表する王の居城

英語名

Edinburgh Castle

所在地

Castlehill, Edinburgh EH1 2NG Scotland

訪城日

2014/07/19

歴史等

エジンバラ城は、6世紀に天然の要害である急峻な地形を利用して築かれたケルト人の砦を起源とする。
11世紀、スコットランド王マルコム3世はここに城を築いた。
1296年に、イングランド軍の大砲による攻撃で陥落し、イングランドによる城の占領は18年間にわたったが、1314年、スコットランド王ロバート・ザ・ブルースの甥サー・トーマス・ランドルフ(マリー伯爵)が奪回した。
しかし、1329年にロバート・ザ・ブルースが死去すると、再び再び戦闘が勃発し、1335年までの間に、またしてもイングランド軍の手に落ちた。
1341年、ウィリアム・ダグラスが奇策を講じて城を奪回し、その後ブルースの息子デイビット2世がスコットランドを統治するために戻り、城の修復に努めた。
1371年、デイビッド2世が城内で死去しブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、スチュアート朝が始まり、以降、ロバート3世からジェームズ6世まで、続いて計8人がスコットランド王として統治した。
1437年には、それまで首都であったパースでスコットランド王ジェームズ1世が暗殺されたのにともない、1492年にエディンバラに首都が移され、同年スコットランド議会が創設された。
しかし、岩の上のエジンバラ城は住み心地が悪く、ロイヤルマイルの端にあるホリールード寺院の方が好みに合うと判断し、1560年の宗教改革までに古代の寺院はホリールード宮殿として様変わりし、これ以降エジンバラ城は王室に身の危険が迫った時や、儀典上必要がある時にのみ使用されることになった。
しかし、1566年、スコットランド女王メアリーが懐妊した時から2つの要素が重なることになる。つまり生まれてくる子供は、スコットランドとイングランドの2つの王冠を受け継ぐ世継ぎになることである。メアリーは4月にエジンバラ城に居を移し、6月19日、後にスコットランド王ジェームス6世兼イングランド王ジェームス1世となるジェームス王子を出産した。
1603年にスコットランド王ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王に即位すると、エディンバラの商業的・政治的重要性は低下した。
1707年のイングランドとの合併によりスコットランド議会が解散するが、その後も古くからの堅固な城砦の街並みは保存され、スコットランドの歴史・伝統を今に伝えている。
軍事的な意味では、1745~1746年のジャコバイトの反乱が最後である。
尚、18世紀前半、エディンバラは人口密度が過密になり、ヨーロッパでも有数の過密で不衛生な都市となり、人々は小さな部屋にぎゅうぎゅう詰めの状態で暮らしていた。
金持ちの人々は、エジンバラのこの不衛生な街並みに見切りをつけ、別に新たな、太陽の光があふれた理想的な街並みを作ることを計画し、18世紀後半に「New Town 新市街」の建設を開始した。そして従来のエディンバラの街並みは「Old Town 旧市街」と呼ばれるようになった。
1818年、エジンバラ城ロイヤルハウスのクラウンルームが開けられ、その場にいたウォルター・スコットは目を見張った。オナーズ・オブ・スコットランドが、イングランドとのユニオン条約締結後の1707年当時のまま発見されたのである。
また、1836年には軍からの明け渡しを受け、ジェームス6世の寝室がオープンされた。さらに、この他にも城の再建のための大規模な計画が立てられ、1888年には正面入口の門楼が建てられ、1891年にはグレートホールが修復されたりなどした。
そして、1905年、管轄オフィスの変更に伴いエジンバラ城は歴史的遺跡および観光スポットとして新たな役割を担うことになった。
『「現地購入誌・公式ガイドブック」、「ウィキペディア」他参照』

現況・登城記・感想等

スコットランドを代表する城といえば、誰しも思い浮かべるのは「エジンバラ城」でしょう。
エジンバラ城は、数多く残る石造りの建物群、城壁・タワー・砲台・城門等々、魅力的な歴史的建造物が一杯です。
また、各建物内の多くが見学可能な上、博物館や記念館となり様々な展示がされているようです。中でも、ロイヤルパレスのクラウンルーム内に展示されているブリテン島最古の戴冠用宝玉「オナーズ・オブ・スコットランド」やスクーンの「運命の石」は必見です。
これらを全て見学しようとすれば半日以上は掛かるでしょうが、今回もパック旅行の身の上の私に与えられた時間は僅か1時間20分ほどでした。当然、建物内はもとより、多くの建造物の外観さえも見落とすことになってしまいました(;>_<;)。
また、テレビの旅番組や書籍・雑誌から得た情報から、私にとってエジンバラ城といえば、街から見上げる荒々しい岩山の上に建つ姿と、毎日13時きっかりに放たれるワン・オクロック・ガン(空砲)、さらには、キルトを着用した人がバグパイプを演奏する光景でしたが、そのいずれもほとんど見ることができませんでした(/。ヽ)。 いつか、是非再登城したいものです。
(2014/07/19登城して)

ギャラリー

エジンバラ城縄張図(現地購入誌・公式ガイドブックより)
①城門、②ラング階段、③アーガイル砲台、④ワン・オクロック・ガン、⑤国立戦争博物館、⑥司令官邸宅、⑦新兵舎、⑧ロイヤル・スコッツ・ドラゴン近衛騎兵連隊博物館、⑨ロイヤル・スコッツ連隊博物館、⑩フッグス・ゲート、⑪セント・マーガレット礼拝堂、⑫モンス・メグ、⑬ドッグ・セメタリー、⑭アーガイル・タワー、⑮フォアウォール砲台、⑯ハーフ・ムーン砲台、⑰デイビッズ・タワー、⑱ロイヤル・パレス、⑲オナーズ・オブ・スコットランド(スコットランドのクラウン・ジュエル:戴冠用宝石)、⑳グレート・ホール、㉑スコットランド国立戦争記念館、㉒捕虜収容所、㉓デュリーズ砲台、㉔軍刑務所、㉕西側防塞壁
00エジンバラ城縄張図

【登城記】
エスプラネード
エジンバラ城へ向かうと、城を隠すかのように観覧席と舞台ができていました。エディンバラの夏の風物詩「ミリタリー・タトゥー」の準備だそうですが、今年は7月23日から、同じスコットランドのグラスゴーで「コモンウェルスゲームズ」が開催されるので、ここで、今夜、そのオープニングセレモニーが開催されるようです。
ミリタリー・タトゥーとは、1950年から、毎年8月にエジンバラ城のエスプラナード広場で開催されているイベントで、タータンチェックのキルトを身につけたスコットランド軍楽隊がバグパイプの音色とともに整然と行進し、スコットランドを存分に味わえる人気のイベントだそうです。
また、コモンウェルスゲームズ とは、イギリス連邦に属する国や地域が参加して4年ごとに開催される総合競技大会です。
いずれのイベントも興味ありますが、見ることのできない身にとっては観客席と舞台は邪魔でしかありません(苦笑)
01エスプラネード

城楼
現在の城への表玄関ともいうべき城楼は、1888年に城をより壮観に見せるために建設され、17世紀に造られた簡素な正門にとって代わりました。城楼手前の空堀も立派なもので、いろいろ調べましたが築造年代等々が載っているものがなく分かりません。
訪れる人が多過ぎて、正面から撮ることはできませんでした。

03門楼

ロバート・ザ・ブルースとウィリアム・ウォレスの銅像
門楼の外側、ファザードには国王ロバート・ザ・ブルースとサー・ウィリアム・ウォレスの銅像が取り込まれています。これらは、ブルース王の没後600周年を記念して1929年に設置されたものです。
05ロバート・ザ・ブルース 06ウィリアム・ウォレス

城楼(城内側)
城楼をくぐり振り返って撮ったものです。
07門楼

ハーフ・ムーン砲台
城楼をくぐって入城するとすぐ左上に、荒々しい岩の上に築かれた石積みの城壁があり、その上には「ハーフ・ムーン砲台」が設置され、狭間から大砲が覗いています。その姿は、下に居る我々を威圧するような迫力があります。
ハーフムーン・砲台は、ラングの包囲後、デイビッズ・タワーの瓦礫の中で、城のメイン高所防塞壁の役割として、攻撃を受けやすい東側正面に築かれました。この砲台には1716年まで「7人姉妹」と呼ばれるブロンズ製の大砲が装備されていました。大砲は1500年頃、ジェームス4世のために使われたといわれます。また、ここは「ワン・オクロック・ガン」の最初の設置場所にもなりました。

09ハーフ・ムーン砲台

城門へ向かう(左上はフォアウォール砲台)
城門へ向かって進むと、両側が石積みの壁で挟まれるようになります。左の城壁上は「フォアウォール砲台」で、狭間から大砲が覗いています。右側の建物は説明等がないので分かりませんが、門番たちの待機所跡のようなものでしょうか。現在は土産物売り場などになっています。
11城門へ

城門
この城門が、通常、エジンバラ城へのメインゲートとして使われてきたが、この登城道は、急斜面で危険な他の3つの方角と比べると緩やかで登りやすいため攻撃を受けやすく、何世紀もの間に大きく様変わりしてきたそうです。1573年に収束したラングの包囲後、城の主だった門として「落とし格子門」が設けられました。
13城門

落とし格子門
15落とし格子門

ラング階段
城門をくぐり抜けてから振り返って撮ったものです。写真右は70段の急な階段で「ラング階段」と呼ばれています。中世では、この階段が頂上に続く主な登り口でした。
17城門とラング階段

左から、城門、ラング階段、ドッグ・セメタリー、モンス・メグが置かれた城壁
ラングの階段を登らず、敷石で舗装された左へカーブするなだらかな坂道を進み、再度、振り返って見ると、荒々しい岩の上に城壁(写真右上)が見えますが、その上に「モンス・メグ」と呼ばれるドデカイ大砲が置かれています。その左側に見える城壁の上には「ドッグ・セメタリー」と呼ばれる居ぬの墓所があります。また、その城壁に取り付けられている銘板は、イングランドからの独立戦争中、城を奪還するための大胆な襲撃を記念したものです。 
19ラング階段とドッグセメタリー

アーガイル砲台
なだらかな坂道を、さらに登って行くと右手前方に「アーガイル砲台」が現れます。6つの砲列からなる、このアーガイル砲台は1730年代に、スコットランドのハイランド地方の軍用道路で知られるジョージ・オーガスタスの命により建造されたものです。
展示されている大砲はオリジナルではなく、ローヤル・アーマリーからの貸借物で、前込め式18ポンド砲で、1810年のフランス帝国ナポレオン戦争の頃の製造です。
尚、ここまでの敷石で舗装されたなだらかな登城道は、17世紀に重量の重い大砲が城を出入りする際に移動しやすくなるように造られたものだそうで、小さな花崗岩が敷かれた中央部分は馬の蹄がうまくグリップするように整えられたそうです。

21アーガイル砲台1

ワン・オクロック・ガン
アーガイル砲台の向こうには、テレビの旅番組や雑誌などで、よく紹介される「ワン・オクロック・ガン」が展示されています。「ワン・オクロック・ガン」は、日曜と復活祭の金曜日、及びクリスマスを除く毎日午後1時きっかりに空砲が放たれます。是非見物したいところですが、残念ながら12時20分には城門前に集合ですから見物できません(;>_<;)。
ところで、何故12時でなく中途半端な午後1時に空砲を放つかですが、元々はフォース湾を航行する船乗りたちに正確な時刻を教えるために空砲を放ったのだそうですが
、12時だと12回放たねばならず、そのたびに12回も火薬を使い、砲身も掃除しなければならないが、1時ならば1発で済むからだという話がありますが本当でしょうか? 本当だとしたら、スコットランド人は合理的?、倹約家?、それともケチなのでしょうか(笑)。
24ワン・オクロック・ガン

ワン・オクロック・ガン脇からアーガイル砲台を
ワ・オクロック・ガン脇から振り返ってアーガイル砲台方面を見ました。複雑に組み合わさった建造物群と城壁群のコラボが見応え満点です。
22アーガイル砲台2

ワン・オクロック・ガン展示入口??
ここで、ちょっと気になるものを見付けました。ワン・オクロック・ガンの手前にある階段入口に「ONE OCLOCK GUN EXHIBITION」という案内板があり、矢印は階段の下を指しています。「ワノクロック・ガンは、目の前に置いてあるのに何故?」と思いながらも階段を下りて行きました。
IMG_0769

もう一つのワン・オクロック・ガン?
階段の下に降りると、そこにもワン・オクロック・ガンと同じほどの大きさの大砲が置かれていました。これが、何なのか未だもってわかりません?
IMG_0772

ワン・オクロック・ガン脇から城頂部方面を望む
荒々しい岩盤とその上に築かれた建造物群は、頭上へのしかかって迫ってくるようで迫力満点です。
31ワンオクロック前からモンスメグなどを

城中心部へ向かいます
左へカーブしながらなだらかな坂道を登って行きます。
32新兵舎と塔

フッグズ・ゲートへ向かいます
ロイヤル・パレスなどがある城の中心部への入口「フッグズ・ゲート(写真中央やや右)」へ向かって坂道を登って行きます。
33フッグス・ゲートへの坂道

司令官邸宅㊨と新兵舎
坂道を登って行くと、右手に司令官邸宅と新兵舎があります。司令官邸宅は要塞司令官用住宅として1742年に建てられました。部下である主席参謀将校・砲兵大隊長・軍用品管理部隊長を居住させるため、彼等の住まいが2棟の中にあてがわれていました。1860年に司令官の職が廃止された後は、城内に勤める看護シスターらが使用していました。
現在は、将校の会食堂及び司令官の住居として務めを果たしています。1935年、国によって儀典用のために再建されましたが、通常は観光客には開放していません。

35司令官邸宅と新兵舎

新兵舎
新兵舎はナポレオン率いるフランス軍との相次ぐ戦闘のさなかに建設され、歩兵大隊(将校及び軍人ら600名)が居住しました。現在も各種軍事目的に合わせて使用されており、通常、観光客に開放されているのは「ロイヤル・スコッツ・ドラゴン近衛騎兵連隊博物館」のみです。
37新兵舎

フッグズ・ゲート
城の中心部への入口となる「フッグズ・ゲート」は、チャールズ2世の命を受けて城の大規模な再要塞化が行なわれた17世紀に建設されました。両側城壁には大砲とマスケット銃用の狭間があります。
39フッグス・ゲート

セント・マーガレット礼拝堂
フッグズ・ゲートを抜けると、正面にセント・マーガレット礼拝堂が現れますが、この小さな建築物がエジンバラ市で最も最古の建物です。1130年頃、デイビッド1世により、王室メンバーのための私的な礼拝堂と建てられたもので、母親であるマーガレットに捧げられました。マーガレットは、夫マルコム3世が待ち伏せにより惨殺されたことで悲嘆にくれ1093年に城内で亡くなりました。非常に簡素な外観とは対照的に、内部は見事な装飾が施されているそうですが、時間に余裕のない私は見落としました(/。ヽ)。尚、この建物は現在でも洗礼や婚礼の際に使用されているそうです。
41st.マーガレット礼拝堂

セント・マーガレット礼拝堂とモンス・メグ
セント・マーガレット礼拝堂の前面には巨大な大砲「モンス・メグ」が置かれています。モンス・メグは、当城内でも特に人気が高いようで、周りは人だらけで、写真を撮るのも難しいほどです。。
42stマーガレット礼拝堂とモンス・メグ

モンス・メグ
モンス・メグは、1457年スコットランドのジェームズ2世に、姪の夫であるフィリップ公爵から寄贈されました。この重さ6トンの重砲は、1449年に造られたベルギーの町の名にちなんで、ただ「モンス」とだけ呼ばれていました。当時は大砲製造技術の最先端をいくもので、重さ330ポンド(150kg)の砲弾を発射することができました。
モンス・メグは、1460年のイングランド軍によるロクスバラ城包囲の際や、1497年のジェームズ4世によりノルマン城での戦いなどで使用されました。しかし、モンス・メグはあまりにも重くて扱いづらく、100人の男たちが束になって引っ張っても1日に3マイル(5km)しか運搬できず、1550年には軍事活動から退役すうることとなりました。
その後、モンス・メグは祝砲として使用されるようになり、1558年には、スコットランド女王メアリーの成婚を記念して大砲の音を響かせました。しかし、1681年10月14日、オールバニ公爵(のちのジェームズ7世)の誕生日を祝って祝砲があげられたときに砲身が破裂したため、モンス・メグは火薬庫のかたわらに遺棄され、1754年までそこに放置され、さらにはジャコバイトの蜂起を機にスコットランドの脱軍事化を図った武器解除行動によりロンドン塔に運ばれました。しかし、モンス・メグは体躯があまりにも巨体であったために溶解されずに1829年に再び当地に帰還することができました。

43モンス・メグ

ドッグ・セメタリー
モンス・メグが置かれている、城壁下には「ドッグ・セメタリー」があります。ここは1840年代から、連隊のマスコット犬および将校らのペット犬を埋葬する場所として使用されてきました。
45ドッグ・セメタリー

モンス・メグ前からの眺望
エジンバラ城は、多くの場所から素晴らしい眺望を楽しむことができます。このモンス・メグ前から眺める景色もその一つです。先程、モンス・メグの周囲の人だかりがすごいと思ったのも、この眺望のせいだったようです。
遠くの景色とともに、真下には、左から火薬庫、その右にワン・オクロック・ガン、その右手前にアーガイル砲台を見下ろすことができます。

47眺望

フォアウォール砲台
モンス・メグの東側には「フォア・ウォール砲台」があります。フォアウォール砲台は1540年代に、中世の防塞にならって建造されたものと思われます。現存の砲台は、ナポレオン統率フランス軍との数々の戦の間にしつらえた鋳鉄製の大砲で装備されています。
尚、砲台の上にある鉄製のバスケットは、緊急時に警告を発するために使用されたそうです。16世紀では、狼煙が一つの時は「要警戒」を意味し、4つ炊くと「恐怖・・・敵(即ちイングランド軍)が大軍で侵攻中」との意味になったと言います。

49フォアウォール砲台

スコットランド国立戦争記念館㊧と捕虜収容所
フォアウォール砲台の反対(南)側がエジンバラ城の心臓部(中心部)クラウン・スクエアです。つまり日本の城でいえば「本丸」になります。クラウン・スクエア内へ、我々は左側の建物「スコットランド国立戦争記念館」と右側の建物「捕虜収容所」の間の狭い隙間を通って入りました(他にも入れる通路有り)。

51国立戦争記念館と捕虜収容所

クラウン・スクエア内への出入口
左は、我々が通った戦争記念館と捕虜収容所間の狭い出入口で、右はロイヤル・パレスと戦争記念館の間の出入口です。一段下の写真の左になります。
IMG_0702 IMG_0705

ロイヤル・パレス
戦争記念館と捕虜収容所の間を通ってクラウン・スクエア内へ入ると、正面にロイヤル・パレスが見えます。クラウン・スクエアは、中庭を囲むように、東側にロイヤル・パレス、北側に戦争記念館、西側に捕虜収容所、南側にグレート・ホールの建物が建てられています。
ロイヤル・パレスは、城における王族の住居ですが、ロイヤル・パレスでは重要な出来事がありました。15世紀後半から王はホリールード宮殿を住居としていたが、1566年4月、スコットランド女王メアリーはエジンバラ城のロイヤル・パレスに居を移し、6月19日、後にスコットランド王ジェームス6世兼イングランド王ジェームス1世となるジェームス王子を出産したということです。
尚、ロイヤル・パレスのクラウンルーム内に展示されているブリテン島最古の戴冠用宝玉「オナーズ・オブ・スコットランド」やスクーンの「運命の石」は必見です。私は、最近はやりの「パワースポット」なるものを全く信じないタイプですが、この「運命の石」だけは確かに「パワー」が感じられるような気がしました。

61ロイヤル・パレス

オナーズ・オブ・スコットランド(王冠)と運命の石
ロイヤル・パレス内は見学できますが、オナーズ・オブ・イングランドと運命の石が展示されているクラウンルームは写真撮影禁止なので、現地購入誌(公式ガイドブック)の写真をコピーさせて戴きました。
オナーズ・オブ・スコットランドとは、王冠、笏、御剣を指し、ブリテン島最古の戴冠用宝玉のことです。ジェームズ4世と5世の統治時代にスコットランドおよびイタリアで作られたもので、全部揃って初めて使用されたのは、1543年スコットランド女王メアリーの戴冠式の時でした。この戴冠用宝玉は数々の変遷を経て、現在クラウンルームに展示されています。
運命の石は、何世紀にもわたりスコットランド王がパース近郊のスクーンで即位する際の玉座として使用されてきたものです。1296年、イングランド王エドワード1世によって奪い去られ、ロンドンのウェストミンスター寺院に運ばれた運命の石は、そこで新しい王座、戴冠用玉座の一部として埋め込まれ、以来、何世紀にもわたりほとんどのイングランド君主の戴冠の儀式に使用され、1714年以降はグレートブリテン島の全ての君主に使用された。1950年のクリスマスの日、スコットランド人学生4人によって「運命の石」が持ち去られ、3ヶ月後に500マイル離れたアーブロース寺院の正面玄関前に姿を現しました。そして、現在はクラウンルーム内のオナース・オブ・スコットランドのかたわらに展示されています。

王冠 運命の石

スコットランド国立戦争記念館
中世紀には、城の教会であったセント・メアリー教会がクラウン・スクエアの北側に佇んでいました。しかし、1530年にジェームズ5世が好んでホリールード宮殿に居住し始めたのをうけて、教会は軍需品倉庫に改造され、1754年には取り壊されて北兵舎が建設されました。1923年になり、兵士が城を去ると、第一次世界大戦戦没者のためにスコットランド国立戦争博物館に建て替えられ、1927年には建物内に国立聖堂がオープンした。
63国立戦争記念館

グレート・ホール
グレート・ホールは城で儀式が挙行される際にメインの広間として使用される目的で1511年に建設されました。しかし、命を下したジェームズ4世が2年後にフロッデンの戦で戦死し、王の子孫はホリールード宮殿を好んで居住したため、日の目を見ることはほとんど無かったそうです。
1650年、クロムウェルが城を陥落させると、兵を居住させるために広大なスペースを兵舎へと改築し、それからは230年にわたって城は軍事に使用されました。
1886年、陸軍が撤去すると、以前の壮観さを取り戻す工事が始まりました。

65グレート・ホール

捕虜収容所
最初に捕虜収容所として使用されたのは、フランスとの7年戦争勃発後ほどなく、1758年に北海で拿捕したフランス籍私船船員で、戦争終結の1763年までに捕虜の数は500人以上に達したといいます。
その後、アメリカ独立戦争(1775~83)の際に再び監獄として使用され、その中には「アメリカ海軍の父」と呼ばれる米艦隊のジョン・ポール・ジョーンズ提督もいたといいます。
監獄時代の役割は、フランス革命とナポレオン戦争の期間(1793~1815)にピークを迎えたそうです。

67捕虜収容所

【エジンバラ城を望む】
私にとってエジンバラ城の最大の魅力と思っていた、山麓から見上げる「荒々しい岩肌の上に建つ城の姿」は、今回の旅ではほとんど見ることができませんでした。それでも、何箇所から、木々や建物の上に聳える迫力満点の姿を望むことができました。
(スコット・モニュメントとエジンバラ城)
エジンバラに着くと、スコットランドの有名な作家ウォルター・スコットを称えるために、1840年建造されたというスコット・モニュメントが現れ、その向こうの岩山の上にエジンバラ城が見えてきました。
遠景1

(スコットランド版の忠犬ハチ公「グレーフライアーズ・ボビー」の銅像近くから)
昼食をとるためにレストランへ向かう途中、スコットランド版忠犬ハチ公「グレーフライアーズ・ボビー」の銅像の前を通りましたが、その近くから岩山に聳えるエジンバラ城の姿が見えました。ちょっと手前の煙突のような塔が邪魔ですが・・・(/。ヽ)。
尚、「グレーフライアーズ・ボビー」とは、主人であるエディンバラ市警のジョン・グレイが1858年に死去した後、14年間その墓の隣に座っていた犬だそうです。

遠景2

(街中にて)
レストランで昼食をとったあと少し時間があったので、近くを散策していると家並みの向こうにエジンバラ城の壮大な姿が見えました。
遠景3

(バスの窓から)
昼食後、バスに乗って次の目的地「セントアンドリュース」へ向かうと、窓から荒々しい岩山の上に聳えるエジンバラ城の姿が見えてきました。今回のツアーで
、山麓から見えた一番の撮影スポットです。ところが、バスに乗るや否や雨が降ってきて、窓は雨粒だらけで、こんな写真になってしまいました。この写真を撮った場所には駐車場もあったし、1~2分でもよいから休憩して車外から写真を撮らせてくれても良さそうなものだがと憤慨です。
今回のツアーの添乗員は、これに限らず気の利かない添乗員でした \(`0´)/。
IMG_0820

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