原氏vs上総武田氏・里見氏攻防の地
別名
生実城(おゆみじょう)、北小弓城(きたおゆみじょう)
所在地
千葉県千葉市中央区生実町1551他
形状
平山城(丘城)
現状・遺構
現状:市街地、生実神社
遺構等:土塁、空堀、説明板、石碑
満足度(10点満点)
3点
歴史等
ここ生実の地は、千葉氏が安房の里見氏や上総の武田氏に対峙する重要な拠点であったため、古くから幾多の争奪戦が繰り広げられた。
生実城(北小弓城)は、天正8年(1590)原胤栄が、徳川家家臣・酒井家次との「野田十門字野の戦い」で戦死するまでの52年間在続した。
その後、一時幕府の直轄領となったが、寛永4年(1627)森川出羽守重俊が生実藩1万石の藩主となり、
明治初期まで生実城の1郭に陣屋を構えていた。
『現地説明板より』
この北生実城(北小弓城)と南生実城(小弓城)
の関係は不祥な点が多いので、小弓公方も交えた歴史に関しては、南生実城(小弓城)を参照。
訪城日
2006/11/05
現況・登城記・感想等
従来、この北生実城(北小弓城)は国府台合戦後に築城された近世の城で、
すぐ南にある南生実城
(小弓城)が、原氏及び後に小弓公方が在城した城とされていたが、近年の発掘による出土品や縄張りの単純なことから、この北生実城
(北小弓城)が本城で、南生実城(小弓城)
は出城だったのではとの説に傾いているとのことを、前日登城した亥鼻城
(千葉城)の郷土資料館のボランティアの方から聞いての登城であった。
遺構としては、ほとんどめぼしいものは残っていないのではと思いながらの登城であったが、
生実神社横の空堀や生実神社の周りの土塁は良好に残っていた。また、県道66号線沿いには北小弓城大手口跡の石碑があり、
その奥の土塁もはっきりと残っていた。また、弁天池越しに見る本丸方面の光景も往時を偲ばせてくれる。
ただ、森川藩陣屋あたりは、住宅地になっており、全く見るべきものはなかった。
(2006/11/05訪城して)
ギャラリー
生実神社(この付近が最も良好に遺構が残る。写真左側には土塁と空堀があり、
土塁は神社の奥と右側にも残っている。)
良好な形で残っている土塁(土塁の左側は空堀)
空堀(今でも結構深く、幅もかなり広い)
「北小弓城大手口跡」の石碑(石碑裏の土塁が奥の方へと続いて残っている。)
弁天池手前から生実城(北小弓城)本城方面を