本丸北西隅の石垣
鶏籠山の山頂に築かれた龍野赤松氏の城
別名
鶏籠山城(けいろうざんじょう)、朝霧城
所在地
兵庫県たつの市龍野町上霞城
形状
山城(標高211.8m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:空堀、曲輪、石垣、土塁、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/10/09
歴史等
赤松氏は円心(則村)に至って、足利尊氏のもと播磨・備前・美作3国の守護を兼ねて大いに家名を上げた。しかし、嘉吉元年(1441)
6月24日、円心から3代後の満祐が6代将軍義教を謀殺するという嘉吉の変を起こした。播磨龍野の奥の亀の山城(城山城・きのやまじょう)
に立て籠もった満祐は強大な幕府軍を迎え、一族と共に戦死した。
赤松氏は壊滅的打撃を受けたが、逃げ隠れていた遺臣達が満祐の弟義雅の孫政則を盛り立てると共に、幕府へ赤松家再興を願い出た。
その条件として後南朝に奪われた神璽(やさかにのまがたま)を取り返すことを訴えた。そして赤松残党は、嘉吉の変から16年後の長禄元年
(1457)12月1日、吉野を襲った(長禄の事変)。事変の結果については諸説あり定かではないが、赤松氏は再興を許され、
政則が当主の座についた。
政則には側室の子である村秀がいたが、細川勝元の娘である正室に遠慮して婿養子を跡継ぎにしたことから、村秀には、明応8年(1499)、
鶏籠山に新城(龍野古城)を築いて与えることにした。龍野赤松氏の始まりである。村秀のあと、政秀、広貞、広英と城主になり、
4代78年続いた。
天正5年(1577)、織田信長の家臣羽柴秀吉が播磨を平定するため、2万の大軍を率いて揖保川の対岸まで侵攻してきた。
この様子を見た広英は、籠城を覚悟するが、赤松の滅亡を憂う家臣の諫めにより、城を明け渡した。
開城のあとは、秀吉が入った姫路城の支城となり、
蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政と秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となった。
その後、慶長の初め(1598年頃)に山頂の城を取り壊して、山麓に城が築かれたと云われているが、その時期は確かではない。
龍野古城は、自然の地形を利用した城で、標高211.8mの山頂に、城の要となる本丸が築かれ、本丸の側には守護神八幡宮が建てられた。
さらに、本丸より南の小高い部分には二の丸が築かれていた。石垣は、野面積みの技法を用い、腰曲輪、帯曲輪を連ねており、削平地には兵営、
矢倉、米倉などが配置されていたと思われる。また、敵の攻撃を防ぐ為、土塁をめぐらしたり、物見台を設けたり、竪堀、
横堀などが作られていた。
『「現地説明板」、「「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
龍野城の裏手にある登山口から九十九折れの登城道を登って行く。
まだ秋浅い季節なのに、どういう訳か落ち葉ばかりで雑草がどこにも全く生えていない。お陰で蛇を踏みつけたりする心配もなく、歩き易いし、
遺構も分かり易いが、それにしても不思議だ。
登城道のあちこちに削平地や帯曲輪跡らしき所が確認された。15分から20分ほどで登り切ったと思った所はは二の丸であった。
そこから更に奥(北)へ3~4分で本丸に到着する。二の丸も本丸も非常に狭い。そして、木々が多く繁っていてパノラマとはいかないが、
木々の間から見える眺望はなかなか良い。残念ながら、今日は霞んでいて瀬戸内海までは望むことは出来なかった。
本丸裏の八幡宮跡の石畳と石段は良好な形でよく残っていた。また、
本丸の算木積みに近いような石垣もなかなかよく残っていて嬉しくなってきた。赤松氏の城としては、それほど規模は大きくはないが、
考えていた以上に遺構が残っていて良かった。(2006/10/09登城して)
ギャラリー
龍野古城全景
手前の櫓は龍野城の模擬隅櫓、
後ろの山が龍野古城城址
登城道
どういう訳か落ち葉ばかりで雑草がどこにも全く生えていない。お陰で蛇を踏みつけたりする心配もなく、
歩き易いし、遺構も分かり易いが、それにしても不思議だ。
帯曲輪跡
㊧二の丸の土台、㊨二の丸
㊧二の丸からの東側の眺望、㊨西側の眺望
木々が多く繁っていてパノラマとはいかないが、木々の間から見える眺望はなかなか良い。
㊧本丸跡、㊨本丸の龍野古城の碑
本丸北西隅の石垣
本丸のこの算木積みに近い石垣を発見した時は嬉しかった。
㊧八幡宮跡、㊨八幡宮鳥居の一部
㊧八幡宮石畳跡、㊨八幡宮への石段
この石畳と石段は非常に良好な形で残っていた。右写真の石段の上の石垣は本丸の石垣。