下野 唐沢山城(佐野市)

本丸から二の丸にかけての石垣

関八州を一望に収める山城

別名

根古屋城、橡木城

所在地

栃木県佐野市富士町

形状

山城

現状・遺構等

現状:唐沢自然公園(山林、唐沢山神社)
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、堀切、竪堀、枡形虎口、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

歴史等

唐沢山城は藤原秀郷(俵藤太)が天慶三年(940)に築城を始め、同五年(942)に落成したと伝えられている。その後、 いつしか廃城となったが、鎌倉幕府の下家人である佐野氏(秀郷の子孫)再興して、その本拠とした。
戦国時代の下野(特に南部地域)は、上杉氏と後北条氏の攻防の舞台となった。そのような状況下で、佐野氏は、弱小戦国大名であったが、 唐沢山城の天険を頼りにして、巧みな外交術によって独立を保とうとした。しかし、後北条氏の圧力には抗し難く、 佐野氏は北条氏康の六男氏忠を養子として迎え入れるという形で、その支配下に組み入れられた。
天正18年(1590)後北条氏が豊臣秀吉に滅亡させられた。小田原の役に際して、佐野一族の天徳寺了伯は秀吉に従って功績を上げ、 唐沢山城を後北条氏から取り戻すことに成功した。その後、了伯は佐野房綱と名乗り、佐野の名跡を継ぐとともに、 秀吉から佐野領3万9千石を安堵された。この時、城の大改修を行なっている。現在残っている石垣はこの時のものであるといわれている。
房綱は文禄元年(1592)隠居して、秀吉の家臣・富田知信の次男・信吉に家督を譲った。信吉は関ヶ原合戦に際しては徳川方に与したので、 所領を安堵されたが、慶長7年(1602)、徳川家康より唐沢山城を廃して、春日岡(佐野市)に移転するように命じられた。一説には、 山城禁止令に唐沢山城が抵触したため、平城である春日城 (佐野城)に移転させられたと云われている。
しかし、次のような事件が唐沢山城の廃棄に繋がったとも伝えられる。
慶長7年(1602)2月に起きた江戸の大火に際して、唐沢山城からも、その様が遠望された。驚いた信吉は江戸城へ駆けつけた。 本来なら、徳川家の大事を思い、急ぎ参じた信吉は報償されるべきであろうが、逆に、予告なしに江戸へ出府したことを責められ、 唐沢山城を廃棄するように命じられたとも云われている。つまり、 外様大名の佐野氏が江戸の大事を即刻知ることができる山城に居を構えていては、徳川氏にとって不都合であるということだったのであろう (現在でも、唐沢山城跡からは、関東平野が一望のもとに見渡せ、冬晴れの日のは富士山まで望める)。
佐野氏は、唐沢山城を廃棄させられただけでなく、慶長14年(1609)信吉の実家・富田氏の改易に連座して、新城・春日城と領地をも没収されてしまう。
『日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)より』

訪城日

2006/10/09

現況・登城記・感想等

関東七名城の一つで、しかも関東には珍しい石垣が多く使われている山城ということで、期待し過ぎていたのかもしれない。
唐沢山が目の前に見えてきて、車で登っていく九十九折の道で期待が益々膨らみ、駐車場のすぐ前にある大きくはないが、 きれいな喰い違い虎口を見た時には、ついに登城できると胸がはずんだ。さらに、天狗岩(物見櫓)からの眺望の素晴らしさで、 その思いは絶頂に達した。
しかし、石垣や堀切、曲輪跡、枡形虎口等々見どころは多いが、想像していた以上のものではなかった。確かに、 苔むした石垣はなかなかのものであり、城郭の規模もかなり大きいようであったが、もうひとつ感激というほどのものは感じなかった。
しかしながら、眺望は本当に最高であった。
(2006/10/09登城して)

【関東七名城】
金山城(群馬県太田市)、常陸太田城 (茨城県常陸太田市)、厩橋城 (群馬県前橋市)、宇都宮城(栃木県宇都宮市)、川越城 (埼玉県川越市)、忍城 (埼玉県行田市)とこの唐沢山城を指す。

ギャラリー

唐沢山城跡案内図   ~クリックにて拡大画面に~

枡形虎口(城内側から)
それほど大きなものではないがきれいな枡形虎口である。

㊧天狗岩(物見櫓跡)、㊨天狗岩(奇岩である)
 

物見櫓跡からの眺望   ~クリックにて拡大画面に~
ここからの眺望は、今まで見たどの城址からのものよりも見事なものであった。残念ながら当日は、 天気が良すぎて?南方向が逆光で東京や富士山は見えなかった。
 

大炊井
築城の際、厳島大明神に祈願をしその霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとのことである。深さ9m、 直径8mあり、今日まで水が涸れたことがない。

神橋
旧名、曳橋と云い四ツ目堀切に架けられた吊橋で、架撤自在のものであったという。

四つ目堀
神橋に下の堀で、当時はもっと深かったと思われる。
 

㊧帯曲輪、㊨三の丸跡
㊧三の丸下にある。右は三の丸への石段
 

石垣
さくらの馬場を登りきったところの石垣で、正面は引局の石垣

石垣
本丸から二の丸にかけての石垣。苔むした石垣はなかなかのものである。


㊧本丸跡(唐沢山神社)、㊨本丸を周る石塁
唐沢山神社には、藤原秀郷が祀ってある。
 

㊧二の丸、㊨二の丸から本丸への虎口
 

㊧二の丸・武者詰間の虎口、㊨二の丸・武者詰間の虎口と本丸(右上)
  

武者詰め

南城跡
本丸より南にある所から南城と呼ばれる。南北18m、東西36mある。天気の良い日には、 東京の高層ビルが眺められるが、残念ながら逆光のため見えなかった。

車井戸
当時、茶の湯に使用された井戸で、「がんがん井戸」ともいわれ、 深さ25m余あり龍宮まで続くとも云われている。

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