本丸跡に僅かに残る土塁
室町期に大塚氏により城郭化、関ヶ原合戦後戸沢氏により近世城郭化
所在地
茨城県高萩市下手綱雉子尾
形状
山城(標高:54.5m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:土塁、井戸跡、曲輪、堀、石碑、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2006/03/05
歴史等
創築は鎌倉時代に手綱氏によってなされたといわれ、応永27年(1420)頃には竜子山一帯に、大塚氏によって城郭化されたという。
その後、陸奥国岩城地方(福島県)の領主であった岩城氏に攻め込まれ、文明17年(1485)には岩城氏に降状した。
大塚氏は後に常陸太田城主佐竹氏の家臣となり、
慶長元年(1596)に岩城氏・佐竹氏連携の知行割りで、陸奥の折木城(福島県広野)に移封された。
ここまで大塚氏の竜子山支配は170年間続いた。
関ヶ原合戦後の慶長7年(1602)、戸沢政盛が角館城主より4万石で竜子山城に入城し、
同10年(1605)には松岡藩と改称し、
山城であった龍子山城を平山城とし、近世城郭へ改修した。また城下町の整備も行った。
元和8年(1622)戸沢氏は出羽新庄に移り、
水戸徳川家の持城となり、
中山信政が城主となったが、信政は宝永4年(1707)久慈郡太田に移り、廃城となった。
その後、享和3年(1803)水戸6代藩主治保の弟信敬が中山家を継いで松岡に復帰し、
新たな建物を建物を築いた。
明治元年(1868)最後の藩主信微のとき正式に大名として独立・立藩したが、竜子山の麓に陣屋を置いた形であった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)他参照』
現況・登城記・感想等
龍子山城址は曲輪、土塁、堀等々遺構がよく残っている。
山頂部の本丸跡には、石が転がっている土塁も残っていたが、往時は多少の石積みもあったのかも?
また本丸周り(横)には堀跡(竹が密集していたり、倒れていて堀跡を被っていた)も残り、水が溜まっていた。
しかし、説明板どころか遺構の所在を示す案内板さえ全く無い。
綺麗に整備された平城部分(松岡城址)
に対して、この山城部分(龍子山城址)は荒れ放題といった感じで、あまりにも平城区域との差が大きい。寂しい限りである。
(2006/03/05登城して)
ギャラリー
平城(松岡城)
と山城(竜子山城)
手前が平城区域、奥の山が山城区域
竜子山城の図
32堀切、33曲輪、 34本丸、35王塚、36御祠堂、37陣鼓、38~40櫓、41井戸、
42門
山城への登城道
山城区域で最初に出会った曲輪跡
次に出会った曲輪跡にも井戸跡があった。
本丸跡
土塁に石が転がっていたが、石垣もあったのかも。
本丸の土塁跡? 王塚?
土塁上にはベンチがあったが、こんなものを設置するよりも説明板でも設置して欲しいものだ。
本丸横の水堀?
竹が密集し、また倒れていて堀跡を被っている。