千葉一族・原氏を倒し、小弓公方・足利義明の御所とした
別名
小弓城(おゆみじょう)
所在地
千葉県千葉市中央区南生実(八剣神社、埋蔵文化財調査センター近辺)
形状
平山城(丘城)
現状・遺構
現状:市街地、八剣神社他
遺構等:土塁、空堀
満足度(10点満点)
1点
歴史等
上総の武田氏は、小弓城による原氏と長年にわたり抗争を繰り返していた。しかし、
原氏は宗家の千葉氏を凌ぐほどの力を誇り武田氏を圧倒し続けた。そこで、武田一族の真里谷(まりやつ)氏は、古河公方足利政氏の次男を奉じ、
房総の諸将を結集することによって、小弓城を攻略することを策した。
政氏の次男は、出家して空然と号していたが、父政氏と兄高基の間で争いが絶えず、巻き込まれることを恐れ、奥州黒川
(会津若松)の芦名氏のもとに逃れていた。空然は真里谷氏の招きに応じ、房総の諸将の旗頭に祭り上げられ、
還俗して足利義明と名乗った。
永正14年(1517)、義明を総大将とする武田氏・真里谷氏・里見氏の連合軍は激戦のすえ、小弓城攻略に成功した。
小弓城を攻略した連合軍は、城を改修して義明の「御所」とした。それ以後、義明は、「小弓公方」と呼ばれ、
鎌倉以来の名族である千葉氏をはじめ、多くの周辺の諸将を従えた。
一方、高基が没し、古河公方の跡を継いだ嫡男の晴氏は、みずからの地位を脅かす義明の討伐を決意、妻の実家である小田原の北条氏綱の援軍を得て小弓城攻略のため房総へ向け軍勢を進めた。
天文7年(1538)10月、足利晴氏と北条氏綱の連合軍は下総国府台で激突。
義明方は義明をはじめ、多くの者が討ち死に、完敗を喫した。(第一次国府台合戦)
以降、上総・安房勢力は南に退き、原胤清は小弓城を奪還したが、北方1kmほどの台地上に新たに生実城(北生実城)
を築いて移転し、小弓城は廃城となった。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)、「サイト・埋もれた古城」』
以上が、従来から伝えられてきた歴史であるが、亥鼻城
(千葉城)のボランティアの方から聞いた話によると、「近年の発掘調査などから、北生実城(北小弓城)に較べ、
発掘による出土品が少ないことや縄張りがあまりにも単純なことから、北生実城(北小弓城)が本城で、
南生実城(小弓城)は出城(砦)だったのではとの説に傾いている」とのことである。
訪城日
2006/11/05
現況・登城記・感想等
あまりにも市街地化(というよりも農村化?)が進んで、遺構はほとんど残っていないに等しく、また縄張りもほとんど分からなかった。
一部、土塁や空堀が八剣神社や埋蔵文化財調査センター近辺に残ってはいるが、ゴミが捨てられていたり哀れな感じである。
残念ではあるが、基本的に遺構を残そうという意識は全く感じられない。これも止むを得ないのかな?
(2006/11/05登城して)
ギャラリー
八剣神社(石段を登って所に神社があり、その裏辺りが主郭か?)
八剣神社裏の曲輪跡
八剣神社裏の土塁跡?(近年盛られたものかも?穴が掘られてゴミが燃やされていた。哀れ!!)
空堀(この空堀の回りもゴミだらけでみじめ!!)
堀切(八剣神社と隣の台地を切り分けられているが、これは後世のものか?)
土塁(埋蔵文化財調査センター裏に残っていた)