城址前国道145号線脇に建つ城址碑と説明板
信長の死により滝川一益撤退後、後北条氏により築城
所在地
群馬県吾妻郡高山村中山
形状
平山城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度
?????
訪城日
2006/09/30
歴史等
群馬県史 通史編3 中世は「16世紀に入ると、上野内の築城は第三期を迎え・・・中世築城の最盛期となる・」とし
「主な城を挙げると、金山城・
箕輪城・・長井坂城・中山城・・などである」と記している。そして、
その築城者は、前記した城は総て後北条氏によるとし、特に、中山城と長井坂城の築城手法は、同じ半折囲郭構造で驚くほど似ている、
と指摘している。
その構造は、本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を設置し、堀切と土居で防禦をつくり、
二の丸の西にこれを囲むような形に三の丸がつくられて、要害堅固な城郭をなしているのがうかがえる。また、その築城年代については、
県教委発行の「群馬県の中世城館跡」によると、北条氏が上野国の主要部を制した後期、天正11年(1583)から14年(1586)
と推定されると記している。
『現地説明板より』
以上のことから、天正10年の本能寺の変で織田信長の死後、後北条氏が滝川一益を破り撤退させた後に、
後北条流築城術を駆使して造られた城であろうことが推定される。
現況・登城記・感想等
国道145号線の「中山」の信号の所から、吾妻寄りの方角に見える小山が中山城であった。比高差は20~25mほどであろうか?
国道145号線沿いのちょっとした駐車用スペースのような所に石碑と説明板が立っていた。
国道側は絶壁で登城口は無い。付図に拠ると、東側と北側から入れるようであったが、東側の農道は、
今日は稲の刈入れ時で農作業の方がいっぱいで道が塞がっており諦めた。また、北側にも廻ってみたが、途中から道が細くなり、
また駐車出来るような空地もなかった。先程の石碑の所に駐車して登城するには時間もなく諦めた。
後北条流築城の結構大掛かりな城郭で、しかも遺構もかなり残っているようで残念ではあったが次回に回すことにした。農閑期に出直そう!
(2006/09/30訪問して)
ギャラリー
中山城付図
中山城の全景(北東側の農道から)