虎口(堀・土橋・土塁)
新田氏、江田行義の館
所在地
群馬県太田市新田上江田町925他
形状
館
現状・遺構等
現状:公園、市街地
遺構等:曲輪、土塁、堀、碑、説明板
【国指定史跡】
指定日:平成12年11月1日
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/09/23
歴史等
この館は、江田行義の館と伝えられている。行義は、新田義重の子、義季の四世の孫で、新田義貞の鎌倉北条討伐に参加し、
極楽寺坂口の大将として軍功をたてた。転戦後、備後国で農業を営み、以後この地で9代にわたり足利氏の目をしのび、姓を「守下」
に改めていたが、10代目大膳という人が文禄年間(1593頃)、祖先のこの地に移転してきたと言われている。
戦国時代には、反町館跡とともに金山城の出城として改修され、
金山城主由良氏の四天王の一人矢内四郎左衛門の居城となった。天正年間には、小田原北条勢が金山城攻略に先立ってこの出城を奪い、
金山城攻撃の拠点とした。その後、北条氏滅亡とともに廃城となった。
江田館跡は、反町館跡とともに新田町
(現太田市)の中世平城の代表的な遺構で、俗に「堀之内」と呼ばれる本丸跡は、東西の側面に「折」を持ち、東西約80㍍、
南北約100㍍の土塁と堀を巡らしている。虎口は南面中央部と東面にあり、土橋となっている。外郭には、本丸の西と南を「カギ」
型にかこんで、「二の丸」がある。本丸から北東に向かって、黒沢、毛呂、柿沼の各屋敷跡があり、それぞれ土塁と堀が残存している。
『現地案内板より』
現況・登城記・感想等
曲輪跡の草が刈られていて助かった。館は周りを土塁に囲まれ、その外側は堀になっている。館への虎口手前から見る、
土橋とその両側の堀、そして虎口の向こうに曲輪跡を囲む土塁の感じが気に入った。また、その土塁と堀が、
ところどころ曲がりくねっていて面白い。土塁の上を外側にある堀を見ながら歩くとなかなか楽しい。
この後、子供の頃に、亡くなった親父から我が家の祖先(室町時代)の地と聞かされている「赤堀城跡」
を訪ねたが、残念ながら夕方暗くなってきて見つけることが出来なかった。
(2006/09/23訪城して)
ギャラリー
江田館本丸跡の全景
虎口
土橋とその横の堀、
奥には曲輪とそれを囲む土塁
㊧曲輪跡(南西方面)、㊨曲輪跡(北東方面)
東側の堀
北東角の折りのある土塁と堀
北東角の曲がりくねった土塁