城址を真っ二つに断ち切っている国道17号線脇に建つ城址案内板
秀吉に「小田原の役」の口実を与えた「名胡桃事件」の舞台
所在地
群馬県利根郡みなかみ町下津(旧月夜野町)
形状
崖城
現状・遺構等
遺構等:曲輪、土塁、空堀、土橋、虎口、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2001/08/17
2006/09/30
歴史等
名胡桃城は沼田城の支城として、
明応年間(1492~1501)に沼田景久の三男・名胡桃三郎景冬が築いたというが定かではない。
戦国末期には上杉氏・武田氏・後北条氏の三氏が沼田攻略のための要衝として争奪を繰り返した。天正8年(1580)正月、
真田昌幸は沼田城を攻めるにあたって、
利根川の渡河点警護と沼田城攻めの前線基地とするために、
上杉方の名胡桃城を奪取し、鈴木主水を名胡桃城代とした。
天正17年(1589)8月、関白豊臣秀吉は沼田領の3分の2を後北条領とし、名胡桃を真田領とする裁定を下したが、同10月、
後北条方の沼田城代・
猪俣邦憲の謀略により名胡桃城が奪取され、城将・鈴木主水は割腹した。
この名胡桃事件に激怒した秀吉は、翌11月21日、昌幸に対して後北条氏に対する厳罰を約束する一方、24日付けで後北条氏の当主・
氏政に対し征討軍の派遣を通告した。世に知られる秀吉の宣戦布告状である。ここに秀吉自らが総指揮をとって、関東・
奥州平定軍をおこすことになり、天正18年(1590)、小田原の役が勃発した。
小田原城開城後は沼田全域が真田氏に与えられた。
沼田領の安泰とともに名胡桃城はその役割を終え廃城となった。
『参考資料:別冊歴史読本・真田幸村(新人物往来社刊)』
現況・登城記・感想等
真田氏の沼田の地に対する愛着を越えた執念さえも感じさせる地であり、北条方の謀略により鈴木主水が割腹した名胡桃事件の舞台で、
小田原の役の口実を与えた城として有名である。
また歴史とは関係ないが、「月夜野町」とか「名胡桃城」というロマンを与えてくれるようなネーミングに、益々興味をそそられ、
非常に興味を持っていた。(残念ながら、最近、住所変更により「みなかみ町」となった。寂しいかぎりである。)
名胡桃城は国道17号線で真っ二つに断ち切られている。南西側はあまり発掘調査がされていないようであるが、
国道17号線の北東側は発掘調査がよく進んでおり、国道側から北東に向かって、馬出、三の丸、二の丸、本丸、ささ曲輪となっており、
その間にはそれぞれ堀切で断たれている。
この城の最も大きな見どころは堀切であろう。特に、本丸と二の丸間、本丸と笹曲輪間の深い堀切には圧倒される。また、さらに凄いのが、
本丸やささ曲輪の東側や西側の空堀や崖である。おそらくほとんど天然のものに多少手を加えただけなのであろうが、
曲輪からみるその深さは凄いものがある。城郭図を見ると他にもかなりの空堀や堀切や崖があるようだ。
また、曲輪の下の方にもかなりの遺構があるようだ。また、近いうちに見て廻ろうと思う。
(2001/08/17、2006/09/30登城して)
ギャラリー
丸馬出し
後の時期に造りつけられたと思われる変形の丸馬出しで、外郭との間を連結している。
国道17号線のすぐ横(北東側)にあり、両側の窪みは三の丸堀。土橋の向こうは三の丸。
三の丸堀
三の丸跡(25×65m)
三の丸から二の丸への虎口
土橋の両側が二の丸堀。二の丸は60×40m
二の丸から見た本丸
手前の本丸堀もさることながら、右側(南側)の急な崖は凄く、はるか下に道が見えた。
本丸(50×25m)
への土橋
この現在の土橋は後世に築かれたもので、木橋の柱穴が確認されたとのこと。
本丸堀
この本丸堀の深さはかなりのもので、
右側の堀切は南下の崖まで繋がる。
本丸中央の徳富蘇峰による「名胡桃城址之碑」
笹曲輪(30×10m)
への土橋
この間の堀切も相当な深さである。
㊧ささ曲輪からの眺望、
㊨袖曲輪
㊧すぐ下に袖曲輪、
㊨ささ曲輪奥下の径5mの小さな袖曲輪