会津藩が戊辰戦争に敗れ、賊軍の汚名をきせられ飛ばされた本州最北の陣屋
所在地
青森県むつ市新町4-11(円通寺)
形状
陣屋
現状・遺構
現状:円通寺、徳玄寺
遺構等:碑、説明板
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2007/08/12
歴史等
会津藩主松平容保は、慶応4年(1868)9月会津戦争に敗れ、新政府に敵対した罪により禁錮(鳥取藩預り)となり、
会津20万石を収公された。翌2年(1869)容保の子容大(かたはる)に家名相続を許され、陸奥下北の地に3万石を与えられて立藩した。
藩庁は五戸から明治4年(1871)に田名部(むつ市)の円通寺に移し、藩士らはこの周辺に居住した。
当時、3歳にもならない容大は、隣接の徳玄寺境内で遊ぶ姿が見られたという。
むつ市田名部の田名部川流域の段丘上が、旧会津藩士帰農のために割り当てられた地域であったが、
開拓は厳しい気候条件を克服できずに離脱する者が多く、開墾は失敗に終わった。
『藩と城下町の事典(東京堂出版刊)より』
現況・登城記・感想等
戊辰戦争に敗れ、国賊の汚名をきせられて本州最北の極寒の地に移された会津藩士の悲しく、哀れな歴史の地である。
しかし、今日は灼熱の太陽のもと、30度を遥かに超える暑さでの訪問で、とてもその歴史に想いを馳せるゆとりはなかったし、
極寒の地ということが、頭では分かっていても実感はできない。
当時は、極貧の中での移封でもあり、陣屋といっても掘立小屋に毛の生えたようなものであったであろうし、当然、遺構らしい遺構はない。
藩庁を置いたという円通寺はかなり大きな寺で、その境内に、容保の子容大の筆による「招魂の碑」が建っている。西隣の徳玄寺の山門近くには
「斗南藩史蹟地」の標柱が建ち、境内には、説明板があるが、風化して墨も剥げ、ほとんど読むことが出来ない状態である。
せめて説明板だけでも何とかならないものでしょうかねえ!?
また、大湊地区の海沿いには、「斗南藩士上陸之地」の説明板と石碑があり、石碑の上にはモニュメントがあった。説明板によると、
明治2年新潟から海沿いをたどり、やってきたとのこと。モニュメントに使われている石は、会津若松市から贈られたもので、
鶴ヶ城の石垣と同じ石だそうである。そして石碑は、会津若松市の方向を向いて建てられているとのことである。
(2007/08/12訪れて)
ギャラリー
円通寺(藩庁が置かれた)
「招魂之碑」
円通寺境内に建つ、容保の子・容大(かたはる)の筆による「招魂の碑」
徳玄寺山門と「斗南藩史蹟地」の標柱
当時、3歳にもならない容大は、隣接の徳玄寺境内で遊ぶ姿が見られたという。
【斗南藩士上陸之地】
この標柱の左方向50m程の所にモニュメント付石碑がある。
右後方には恐山が聳える
モニュメント付石碑
モニュメントに使われている石は、会津若松市から贈られたもので、鶴ヶ城の石垣と同じ石だそうである。
そして石碑は、会津若松市の方向を向いて建てられているとのことである。
モニュメントと恐山