磐城 赤館(棚倉町)

広々とした主郭は市民の憩いの広場となっている

伊達、佐竹、結城氏攻防の城、関ヶ原合戦後には立花宗茂が入城したことも

所在地

東白川郡棚倉町風呂ケ沢

形状

山城

現状・遺構等

現状:赤館公園
遺構等:曲輪、土塁?、空堀?、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2007/07/28

歴史等

鎌倉初期この赤館は伊達氏が得た飛び地であったが、南北朝以降白川結城氏の直轄領地となった。永正10年(1510) 佐竹氏は白川結城氏の依上保(大子を含む北茨城県)を支配し、やがて東館・羽黒館(塙)・流館(近津)等と赤館以南の九南郷館を支配した。
元亀2年(1571)白川義親は南郷の領土奪回にでて南郷一帯で激戦となった。これを好機と小田原北条氏が佐竹家臣の下妻城を攻めたので、 佐竹は赤館を放棄する和睦を結び、南転して行った。棚倉は、この年以後毎年のごとく戦渦を被った。
天正3年(1575)佐竹は前年に続き赤館を攻めたが、蘆品・結城連合軍が撃退する。
天正18年(1590)、伊達政宗は分国を挟むことなくこの赤館で佐竹氏と対峙したが、同年の秀吉の「奥州仕置」で白川結城氏は消滅し、 棚倉は佐竹領地と公認された。
徳川の天下になると、佐竹は秋田に追われ棚倉は天領となった。
慶長5年の関ヶ原合戦で西軍に与した立花宗茂が、柳河13万2千石を没収となり、 慶長8年(1603)1万石を与えられて棚倉藩を立藩し赤館に入城した。その後宗茂は、元和6年(1620)旧領柳河へ復帰した。
そのあとへ元和8年(1622)丹羽長重が常陸古渡から5万石を領して赤館にに入城したが、2代将軍徳川秀忠の命により、寛永2年 (1625)より新城 (棚倉城)の築城をはじめ、赤館は廃城となった。
『「現地説明板」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」等より』

現況・登城記・感想等

本丸跡が公園になっており、遺構はほとんど分からなくなってしまっている。
公園には無料休憩所があり、そこの方の話によると、「平成元年にこの公園が建設され、公園へ上る道が造られて、 その時に空堀等も崩されてしまったのでは?」とのことであった。
多分、その時に、本丸周辺も全て改変されてしまったのではと思われる。今では、本丸跡に結構立派な石碑と説明板があるだけである。
公園から見下ろす棚倉町の眺望はよい。
(2007/07/28登城して)

ギャラリー

赤館縄張図
空堀や土塁等々があるが、 全く改変されており、現在地となっている虎口さえも分からない。

主郭
主郭は公園としてはよく整備され市民の憩いの広場になっているのかも。その割には、 土曜日というのに私達以外誰も訪れる人はいなかったなあ。

主郭からの眺望
下の段は帯曲輪跡? 以前はバラ園になっていたとのこと。

主郭奥に建つ石碑
字が薄くなってしまっているが、真ん中の「赤館」の文字、周りに歴史等説明が彫られている。

主郭切岸
これが唯一の遺構? これさえも相当改変されているのでは?

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