下乗橋から見る天守閣
南部氏の侵入を防ぐため堅固に築かれた名城は東北唯一の現存天守が残る
別名
鷹岡城
所在地
青森県弘前市下白銀町弘前公園
形状
平山城
現状・遺構等
現状:弘前公園(国指定史跡)
遺構等:現存天守(3重)、現存隅櫓(3重)3基、現存城門(櫓門)5棟、本丸石塁、二の丸以下の土塁、内堀、中堀、 外堀、石碑、説明板、広さは49.2ha
【国指定史跡】
指定日:昭和27年3月29日
指定理由:石垣や各郭跡などの遺構がよく残り、惣構もまたおおむね旧態をとどめ、近世城郭の規模を示すものとして価値が高い。
満足度
★★★★★
訪城日
2001/04/29
2007/08/11
歴史等
戦国時代、津軽は南部氏の支配下にあり、石川城(弘前市)にいた石川(南部)高信が君臨していた。のちに弘前藩祖となる大浦為信も、 三戸の南部氏の一族として従属していた。
為信は、当時、岩木山山麓の大浦城を居城としていたが、戦国の動乱に際し、南部本家の支配を嫌って津軽の覇者たらんとした。元亀2年(1571)5月、石川(南部)高信のいる石川城(弘前市)を奇襲し、これを陥した。以来17年、次々に津軽の諸城を攻め滅ぼし、津軽地方一帯を統一して領土とすることに成功した。
一方、津軽を大浦氏に奪われた南部氏は、その奪回に心を砕くが、為信は先手を打っていた。為信は、豊臣秀吉の小田原征伐に自ら参陣し、津軽一円の本領安堵を得て、姓も津軽と改称した。また、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時にも、為信はわずかの兵を率いて徳川方に参陣して大名としての地位を保証されている。
慶長8年(1603)、津軽為信は弘前城の築城に着手するが京都で客死し、築城は中断してしまうが2代信牧により築城再開、慶長16年(1611)に4万7千石の身代に似つかないような、五層の天守をはじめとする大城郭をほぼ完成し入城。城全体の規模は南北が600m、東西が300m以上で、4万5千石といえば、軍事的な動員力は千人以下とされるから、兵をくまなく配置するのも難しいほどの大きさである。
この当初の天守は本丸西南隅に構築されていたが、築城から16年後の寛永4年(1627)落雷により焼失した。現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)、9代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を改築したものである。建築年代は新しいが、濠側の東、南両面には鉄扉窓をつけず、矢狭間だけとし、また一、二層にはその中央に張り出しをつけ切妻破風、石落しを設けるなど古形式になっている。
津軽氏は、明治4年(1871)の廃藩置県まで12代に渡って津軽地方を領した。尚、津軽氏の禄高は、文化5年に表高10万石となるが、実高は開墾の成果により30万石以上の身代であった。
『参考:「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」』
感想等
城は、規模も予想以上に大きく広かったが、現存天守は、小さく、優美さも感じられず、感激はしなかった。
しかし、満開の桜は本当に素晴らしい。この城はやはり桜が主役かもしれない。
とは云いながら、なかなかの城であることも事実である。何と云っても、姫路城と同様、現存建造物が非常に多く残る城である。しかも、かなり大規模な城郭である。今回は桜のあまりの素晴らしさに目を奪われてしまい、肝心の遺構等を見忘れてしまった。次回、またじっくり見て回りたいものである。
(01/04/29訪城して)
6年ぶりの登城である。今回は夏真っ盛りの中、数多く残る現存建造物をじっくり見て廻った。
弘前城には、5つの現存城門、3つの櫓、そして天守閣(三階櫓)が残っている。城門は全てが枡形になっており、どの城門も素晴らしい。櫓もそれぞれ特徴があり、中でも私は、堀越しに見る丑寅櫓の姿が好きだ。天守は、前回は本丸からしか見ず、大した事がないと思っていたが、下乗橋から堀越しに見る天守はなかなか良い。
今日は、午前0:30に東京から帰省ラッシュの渋滞の中を運転して、12:30に青森に着いて、3箇所目で、しかも30度を遥かに超す猛暑の中の登城で疲れたが充分満足した。
(2007/08/11登城して)
ギャラリー
天守(現存)
当初の天守は本丸西南隅に構築されていましたが、築城から16年後の寛永4年(1627)落雷により焼失しました。現在の天守は、江戸時代末期の文化7年(1810)、9代藩主寧親により、本丸辰巳櫓を解体新造したものです。
天守(桜の季節)
2001年4月29日に本丸にて撮ったもので、大変な人混みでした。
築城当初の天守台
【櫓】
櫓はそれぞれ特徴がある。中でも堀越しに見る丑寅櫓の姿が好きだ。あまりの暑さでぼけていて末申櫓の写真を撮り忘れてしまった。
丑寅櫓①
丑寅櫓②
城内側から撮ったものです。
辰巳櫓
【城門】
城門は全てが枡形になっており、どの城門も素晴らしいです。
追手門①
外濠越しに見る追手門と土塁枡形の姿が実に素晴らしい。
追手門②
南内門
南内門(城内側から撮影)
東門
東門(城内側から撮影)
東内門
北門(亀甲門)~前回の2001/04/29撮影したもの~
【堀と橋】
杉の大橋
当初は杉材を使われたことから名付けられた。
内濠と下乗橋
内濠の蓮と下乗橋のコラボレーションが素晴らしい。
蓮池
遠く向こうには岩木山(写真右奥)が見えます。
東内門外橋
城内では唯一の石で造られた橋で、弘化5年(1848)に、それまでの土橋を架け替えました・橋の北側の堀には古代蓮として有名な大賀蓮が植えられています。
東内門北側の濠の古代蓮「大賀蓮」
西濠 (前回の2001/04/29撮影したもの)
西濠の両側には約300本の桜がアーチ状に植えられています。
津軽為信の像(文化センター前に立像)