馬場のある曲輪と土塁
大宝沼北の関城と共に常陸南朝方の拠点として北朝方高師冬と攻防戦が
所在地
茨城県下妻市大宝667(大宝八幡宮)
形状
平城
現状・遺構等
現状:大宝八幡宮、大宝小学校他
遺構等:土塁、曲輪、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2007/07/01
歴史等
大宝城は貞永元年(1232)に下野の小山氏一族の下妻長政が城を築いてから、代々下妻氏の居城であった。
大宝城の北方1km程の所には南北に細長い大宝沼を挟んで関城が有る。
南北朝時代の大宝城主は下妻政泰、関城主は関宗祐・
宗政父子であった。彼らは小田城主の小田治久とともに南朝方につき北朝方と戦っていた。
延元3年(北朝暦応元年、1338)9月、陸奥へ赴くべく伊勢を船出した南朝方の北畠親房が、途中、嵐によって常陸に漂着すると下妻政泰、
小田城の小田治久、
関城の関宗祐、
伊佐城の伊達行朝、
志築城の益戸国行、
駒城の中御門実寛、真壁城の真壁幹重らの常陸における南朝方の中心勢力に迎えら、
親房は 小田城へ入り、
翌年には春日顕国らも来て、常陸は東国における南朝方の重要拠点となった。
一方、幕府(北朝方)は高師冬を派遣し、武蔵・相模の軍勢をもって常陸を攻めた。常陸の南朝方は、一時は高師冬軍を撃退したが、興国2年
(北朝暦応4年、1341)になると、高師冬は、武士達を各個に誘引して南朝方の切り崩しにかかり、
同年11月には小田治久が北朝方に下ってしまった。
その為、親房は関城へ、
春日顕国、興良親王は大宝城へとそれぞれ移り、以後、関城・
大宝城が南朝方の拠点となった。そして、船で互いに連絡を取り合いながら2年あまりに渡り攻防戦を繰り広げたが、ついに力つき、興国4年
(北朝康永2年、1343)城は落城した。
この合戦で下妻政泰や関宗祐・宗政は討死し、北畠親房は脱出して大和吉野へ帰った。春日顕国はなお常陸にとどまり、
一時は大宝城を回復したが、翌年3月奪還され、顕国は捕えられて殺された。
『日本の名城もの知り辞典(主婦と生活社刊)参照』
現況・登城記・感想等
大宝八幡宮の一の鳥居の付近と八幡宮境内の裏側(北側)に土塁が残っているが、一の鳥居付近の土塁は高さ3m以上、
長さも50~60mほど残り、その手前の曲輪跡と相俟って往時の雰囲気が感じられる。曲輪跡は流鏑馬でも行われるのか、一直線の馬場があり、
ひずめの跡が残っていた。ただ、近くで家畜が飼われているからか、馬の糞が周りに残っているのか、
とにかく鼻がひん曲がるのではと思われるくらい臭かった。
往時は、大宝湖を挟んで北に関城、南に大宝城と相対していたというが、その湖(沼)は、今では水田になり、その面影が多少は感じられるかも?
!
一の鳥居側が大手で、境内北側が搦手になり、今でも「大手」という地名が残っているそうである。尤も、この地方の方言のせいか発音は
「おおで」と濁るらしい。
大宝八幡宮は関東最古の八幡宮で参詣客が多いのか、境内前には土産物屋の呼び込みが大変なものである。本殿は、天正5年(1577)
下妻城主多賀谷重経が再建したもので国の重要文化財になっている。また、紫陽花でも有名なのか、境内裏(北側)
にはいろんな種類の紫陽花が沢山植えられ、多くの人で賑わっていた。
(2007/07/01登城して)
ギャラリー
大宝城と関城の位置関係
関城と大宝城は南朝方の拠点となり、
船で互いに連絡を取り合いながら2年あまりに渡り攻防戦を繰り広げた。
一の鳥居付近(大手)
の土塁
一の鳥居付近の土塁は高さ3m以上、長さも50~60mほど残り、
その手前の曲輪跡と相俟って往時の雰囲気が感じられる。
土塁(南東部)
上から東方面を
東側は崖状になって、その向こうは水田が拡がっている。
馬場(写真奥の右側3分の2は土塁) 臭かった~!
!
曲輪跡は流鏑馬でも行われるのか、一直線の馬場があり、ひずめの跡が残っていた。ただ、近くで家畜が飼われているからか、
馬の糞が周りに残っているのか、とにかく鼻がひん曲がるのではと思われるくらい臭かった。
大宝八幡宮、㊨本殿(国指定重要文化財)
大宝八幡宮は関東最古の八幡宮で参詣客が多いのか、境内前には土産物屋の呼び込みが大変なものである。本殿は、天正5年(1577)
下妻城主多賀谷重経が再建したもので国の重要文化財になっている。
「下妻政泰忠死之地」の石碑(八幡宮裏)
搦手口の土塁
堀跡のような凹部と写真奥は大宝沼跡の水田か?
アジサイ