常陸 真壁城(桜川市)

城址全景(外堀の内側の土塁上から本丸方面を)

常陸大掾家の出、真壁氏400余年の居城

所在地

茨城県桜川市真壁町古城377
(真壁第一体育館:TEL0296-54-0753)一帯

形状

平城

現状・遺構等

現状:【国指定史跡】
遺構等:曲輪、土塁、堀、移築門(雨引観音楽法寺に)、石碑、説明板

満足度

★★★★☆

訪城日

2008/01/30

歴史等

真壁城は、真壁長幹により、承安2年(1172)に築城されたと云われている。ちなみに、長幹は常陸大掾家の出である。
真壁城が築かれた承安の頃は、平清盛の全盛時代で、また延暦寺などの宗門の力が強く、その争いがしばしば政治の表面に登場する時代である。
真壁城は築城後、源平の抗争時代から、さらに鎌倉・室町・南北朝時代を経て、戦国時代の終わりを告げた関ヶ原合戦直後の慶長7年(1602) に至るまでの約400有余年にわたる動乱時代を、真壁氏の居城として存続してきたわけであり、当然その間多くの戦乱に巻き込まれている。
中でも初代の長幹が、文治5年(1189)奥州藤原泰衡征討に加わったのをはじめ、6代幹重は南北朝の戦いに北畠親房を助け、 北朝方に攻められ落城。7代高幹は再興したが、12代慶幹は足利持氏との戦いに敗れ、13代朝幹は上杉禅秀の乱の平定に力をつくし、 特に17代久幹は勇武絶倫、世に鬼道無と言われて筑麓にその威名をとどろかせ、18代氏幹は小田氏治。北条氏直との戦いに臨むなど、 その歴史は波乱をきわめている。
そして、関ヶ原合戦後、19代房幹は主従関係のあった佐竹氏に従って秋田角館に移封されたが、 実に400年余の長年月、余に言う乱世の時代、同一氏によって一つの城の命脈が保たれたことになり、歴史的に見ても特筆に値するものである。
その後、慶長11年(1606)浅野長政が隠居料として真壁5万石を家康から与えられ、長政が没した慶長16年(1611)、 長政の3男浅野長重(播磨赤穂浅野家の藩祖) が入封する。元和8年(1622)に長重は常陸笠間へ転封になり、 城は廃城となった。
『現地説明板他より』 

現況・登城記・感想等

真壁城跡は、とにかくだだっ広いという印象だ。建造物がなく、 木々も本丸跡の神社付近にだけ生えているだけでなので真っ平らな感じがするので余計そういう印象を受けるのであろうか? 摑み所が無いようにさえ見える。
しかし、各曲輪間の大規模な堀や土塁は見事に残り、或いは復元され、見る者を圧倒する。
まだまだ発掘調査中であり、これから次々に復元されていくようだ。2~3年後が楽しみだ。
(2008/01/30登城して)

ギャラリー

縄張図(現地説明板より)    ~クリックにて拡大画面に~

本丸跡には体育館が
二之丸から撮影。手前はⅠの堀。

本丸北東隅に建つ城址碑と神社鳥居
本丸北東隅は半島状に突き出ており、神社が鎮座。その入口に石碑が。鳥居左側はⅠの堀 (縄張図)が食い込んでいる。

㊧本丸北に突き出た部分に鎮座する神社、㊨東側には城址碑
㊧左側には、下写真のⅠの堀(縄張図) が食い込んできている。この堀は。折があり、なかなか見応えがある。
 

神社を取巻くⅠの堀(縄張図のの部分)

Ⅰの堀(縄張図の
この堀は、幅が広く、それなりに深くて、写真で見るよりもはるかに見応えがある。

二の丸から中城方面(東方)を望む
なんともだだっ広い城跡であることが、表紙写真やこの写真からもよく分かると思う。 説明板には平山城とあるが、多少の高低差があるものの、これは平山城というよりも平城でしょう!?

Ⅱの堀(縄張図の
左側土塁上は二の丸。土塁の高さは4m近くあるだろうか。

Ⅲの堀(縄張図
この堀や土塁の折りもなかなか見応えがある。左奥の山は茨城県の象徴筑波山。

外堀(縄張図
写真やや右上にはハングライダーが・・・。とにかく城跡もだだっ広いが、周りもほとんど田圃ばかりで、のびやかな風景である。

外堀と土塁(縄張図
この外堀と土塁は南北長く伸びており、何ともかっこいい。土塁の高さは3m以上ある。

鹿島神社(縄張図)方面と筑波山
城跡の外側から進めているのか、この辺りは発掘調査が随分進んでいるようだ。

移築城門(黒門)
雨引観音・楽法寺(桜川市本木1)に移築されている。 この城門は真壁氏最後の城主19代房幹が寄進したものである。

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント