各曲輪間を仕切る入り組んだ堀(東館から北館方面を撮影)
浪岡御所と尊称された名族北畠氏栄枯盛衰の城
所在地
青森県青森市浪岡
青森市中世の館(青森市浪岡大字浪岡字岡田43番地、TEL:0172-62-1020)の近く
形状
平城
現状・遺構等
現状:史蹟公園
遺構等:曲輪、土塁、堀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/08/11
歴史等
元弘3年(1333)10月、北畠顕家は、後醍醐天皇より陸奥守として多賀城に入り、奥州の武士を統率することを命じられた。そして、津軽の豪族行岡氏(なみおかし)の娘に顕成を産ませた(浪岡には藤原秀郷の子孫が住み、顕成は秀郷の曾孫・秀種の娘と顕家との間に生まれたという伝承もある)。 その顕成が浪岡北畠氏の始祖になったとされる。以後、名族北畠氏は、土地の人々にあがめられ「浪岡御所」と尊敬をもって称された。
建武4年(1337)、顕家が和泉(大阪)で戦死したのち、弟の顕信が兄を継いで奥州を統治しようとしたが、北朝方に次々と拠点を奪われ、北へ押し出され、本州の北の果て津軽の浪岡城まで北上した。顕信の子も「川原御所」と称され、本家とともに栄えた。
現在に残る浪岡城が営まれたのは、顕義の時代、応仁の乱(1467-1477)の前後と推定される。1500年代前半の最盛期には、盛んに京都と交流を持ったり、数々の寺社を建てている。
永禄5年(1562)、川原御所の北畠具信が浪岡城を訪れ、突然、当主の具運を切り殺した。そして、その時、具信も具運の家臣達に討ち取られ、残った川原御所の一族も攻め滅ぼされた(川原御所の変)。以後、浪岡北畠氏は急激に衰えていった。
大浦為信は南部氏の武将であったが、反旗を翻して、津軽統一に乗り出し、石川城(弘前市)、和徳城(弘前市)の両城を攻撃し、次いで大光寺城(平賀町)を入手した。石川城や大光寺城は南部氏の拠点であり、次の目標は南部方面への出入口を押える浪岡城へと向けられた。
為信は策をめぐらし、浪岡御所の家臣団から内通者を出させ、忍者を送り込んで浪岡城下の「ならず者」を味方につけ、城下を混乱に陥れたうえで、天正6年(1578)7月20日、為信率いる本隊は三方から攻め寄せたという。浪岡城内では重臣北畠左近が油川城へ出掛けており、不意の攻撃により大混乱に陥り、浪岡御所北畠顕村は捕えられ自刃、浪岡北畠氏は滅亡した。以後、約400年の間、城跡は田園として使われてきた。
なお、浪岡城の陥落は、津軽氏の史料「津軽一統志」によると、以上のように天正6年とされるが、北畠氏を支持していた南部氏の史料では、天正18年のことと伝えられている。
『「現地説明板」、「青森市中世の館・パンフレット」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」参照』
現況・登城記・感想等
東北自動車道の帰省ラッシュを甘くみてしまった。金曜日の夜中でもあり、7~8時間もあれば青森に到着するだろうと踏んでいた。ところが、0:30に東京を出て、12時間もの運転になってしまった。
従って、登城は真夏の真っ盛りの昼間で、気温は30度を遥かに越えていた。城跡は東西1.2km、南北600mという広さである。非常にきれいに整備され、緑の絨毯が敷きつめられたような公園になっているが、木々がほとんどなく、炎天下の散策である。とにかく暑くてたまらなかった。
城跡は、立体模型が設置された東館から、遮るものがほとんどないので、全体を見渡せることが出来る。
城は、幅約20m、深さ5mほどの二重堀で分けられた8つの郭が扇のように広がるのが特徴ではあるが、往時より堀底が2mほど埋まってしまっているため、きれいではあるが、迫力を感じない。また、いくつかの館(郭)を歩いてみて、どこから見渡しても似た感じであった。
そして、とにかく暑い!!参った!!山城も夏は不向きであるが、平坦で影のない城跡も不向きだ。
(2007/08/11登城して)
ギャラリー
縄張図(青森市中世の館・パンフレットより) ~クリックにて拡大画面に~
㊧検校館入口に建つ石碑、㊨案内所と石碑(写真案内所奥から登城する)
東館への登城道
東館から北館方面を(一番奥が北館)
非常にきれいに整備され、緑の絨毯が敷きつめられたような公園になっているが、写真の通り、木々がほとんどなく、炎天下の散策である。とにかく暑くてたまらなかった。
北館傍から東館方面を
城は、幅約20m、深さ5mほどの二重堀で分けられた8つの郭が扇のように広がるのが特徴ではあるが、往時より堀底が2mほど埋まってしまっているため、きれいではあるが、迫力を感じない。また、いくつかの館(郭)を歩いてみて、どこから見渡しても似た感じであった。
東館・新館間の堀切道(現在は道路)から城址を(右から東館、猿楽館、内館)
北館の北側の二重堀