下野 大田原城(大田原市)

本丸周囲をめぐる土塁上から本丸を

天文14年(1545)築城以来、大田原(大俵)氏320余年の本拠

所在地

大田原市元町、龍城公園

形状

平山城(崖端城)

現状・遺構等

現状:龍城公園
遺構等:曲輪、土塁、堀、碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/07/28

歴史等

室町時代初期の明徳2年(1391)、足利幕府の命を受けた大俵康清が、この辺りの豪族那須氏の客将として入り、明応3年(1394) 、上那須福原郷前室と呼ばれた当地に水口城(現大田原市町島字水口)を構えた。
天文14年(1545)大俵氏14代資清が、前室山に大田原城を築き、水口城より移った。この時、姓を大田原とし、 地名も前室から大田原に変えた。以来明治4年(1871)の廃藩置県までの326年間、大田原氏の居城であった。
慶長5年(1600)徳川家康は関ヶ原合戦の前、奥羽の情勢からこの地を重視して城の補修を命じ、さらに徳川3代将軍家光は寛永4年 (1627)常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への鎮護とした。文政8年(1825)には火災によって焼失したが、同9年新たに造営した。
戊辰の役には新政府軍の軍事拠点となったために、旧幕府軍に手薄のところを攻められたが、火薬庫の爆発によって落城をまぬがれた。明治5年 (1872)兵部省に引き渡され、取り壊された。
『「現地説明板」、「大名の日本地図」等参照』

現況・登城記・感想等

登城前に想像していたよりも、はるかに遺構も良好に残り、規模も大きかった。
本丸は非常に広く、高さ4m以上あろうかと思われる土塁で囲まれている。土塁上は散策路になっており、一周できる。土塁の外側は、 東側は真下を流れる蛇尾川まで相当な比高差のある絶壁になっており、その他の3方向は切岸により絶壁になっている。天然の要害の地に、 さらにかなりの手を加えた要害堅固な城であることがよく分かる。
本丸・二の丸間は空堀で区切られ(土橋のような木橋のような)橋が架かっている。二の丸はそれほど広くは無いが、ここも土塁で囲まれている。 ここの土塁はそれほど高くはない。
二の丸から三の丸へも降りて行ける。三の丸への道は木々が鬱蒼と生茂り薄暗く、木柵に囲まれており、途中から進めないようになっていて、 広さ等々は分からなかった。
北曲輪は、かなりの広さである。ここも4m以上あろうかと思われる土塁で囲まれている。また、ここから見上げる本丸切岸は、 本丸土塁上までは15m以上はあろうかと思われ、見応えがある。
また、公園の北西下に三日月堀が残っている。
(2007/07/28登城して)

ギャラリー

大田原城之図(現地説明板より)   ~クリックにて拡大画面に~

二の丸への登城道
左側の切岸上は本丸、右の道を真っ直ぐ登って行くと二の丸へと出る。

㊧二の丸、㊨二の丸土塁
二の丸はそれほど広くは無いが、ここも土塁で囲まれている。ここの土塁はそれほど高くはない。
 

三の丸へ(㊧は二の丸南西部から撮影)
二の丸から三の丸へも降りて行ける。三の丸は木々が鬱蒼と生茂り薄暗い。三の丸は柵に囲まれており、 途中から進めないようになっていて、広さ等々は分からなかった。
 

本丸・二の丸間の堀切と土橋?(架橋?)

本丸
本丸は非常に広く、高さ4m以上あろうかと思われる土塁で囲まれている。

㊧折りの入った本丸西側の土塁、 ㊨本丸北側の土塁
 

北曲輪
㊧右側に本丸下の切岸、㊨土塁上から撮影
北曲輪は、かなりの広さである。 ここも4m以上あろうかと思われる土塁で囲まれている。また、ここから見上げる本丸切岸は、本丸土塁上までは15m以上はあろうかと思われ、 見応えがある。
 

三日月堀
公園の北西下には三日月堀が残っている。

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