磐城 白川城(白河市)

本丸の南下の城址碑と切り立った本丸跡への階段

白河結城氏の本拠

所在地

白河市藤沢18番地他

形状

山城

現状・遺構等

【現状】公園、山林
【遺構等】曲輪、土塁、堀切、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2007/07/28

歴史等

白川城は、白河市街の東方、阿武隈川の川筋を南から一望できる丘陵につくられた。
御本城山(館山)と呼ばれる山頂の平坦部は空濠と土塁で守られた白川城の中心部にあたり、この周辺に防御のためにつくられたたくさんの平坦地や土塁がひろがっている。
結城氏は、小山氏初代、小山政光の三男朝光が寿永2年(1183)に源頼朝から下総国結城郡を与えられたことからはじまる。その後、結城家は宗家と陸奥白河結城家(山川氏)に分かれた。白川結城氏は、この城を本拠地として北関東から奥州にかけて活躍した。そして、北条得家と結びつき、14世紀初めに南奥州の有力御家人に成長していった。
やがて後醍醐天皇が北条氏打倒の兵を挙げるといち早く天皇方に参戦し、宗広・親光父子が南朝方の中心的存在として奥州軍を率いて京都周辺まで2度も遠征し、北朝方の足利尊氏軍と戦った。
そして建武中興後は南朝方の重鎮の地位を確保し、白河結城氏は、宗家をはるかにしのぐ勢力を振るった。
戦国時代の天正年間初期、12代義顕は一族小峰城主小峰義親に追われ会津へと逃亡し、白川城は廃城となった。
『「現地説明板」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

白川城址は、ひっそりとした山林の中にあり、中世の城址の雰囲気があるが、本丸のすぐ南下まで車で登って行くことができる。
中世初期の城としては、かなり大規模な城であったようだが、本丸跡だけは公園化され整備されているものの、その他は藪がひどい。
しかし、本丸及びその周辺には結構遺構が確認される。本丸も当時の山城としてはかなり広く東西50m、南北70mほどあり、北西には土塁が残り、 虎口らしい跡も確認できる。
また、奥州滞在時に立ち寄ったと云われている「後村上天皇聖蹟之碑」と大きな石碑(不詳)が立っている。
本丸北西の虎口の下にも土塁で挟まれた曲がりくねった広い道らしきものが見えた。北西の曲輪跡への道らしいが藪が嫌で諦めた。先日の遠江横地城の登城の際にマムシを何度も踏みつけそうになり、いまだにトラウマから解き放たれていないのです(/。ヽ)。
尚、本丸からの眺望は鬱蒼と生茂った木々が邪魔をしてよくない。
また、本丸の東側(本丸への階段のすぐ近く)には明瞭にわかる堀切がある。
一方、本丸手前西側(本丸の南西)には塁段になった曲輪跡があるが、この最上段の藪道を本丸南西下に沿って北西へ向かうと本丸北西の曲輪への虎口らしきところへ出たが、これまた藪でそれ以上入って行くのは止めた(/。ヽ)。
結局、藪に阻まれて全体像はほとんど掴めないまま下城することになってしまった。少しでも整備されたら、かなり見応えのある城跡なんだろうけどねえ。
(2007/07/28登城して)

ギャラリー

切り立った本丸南下の城址碑と本丸への階段
白川城跡は、ひっそりとした山中にあるが、本丸跡の真下(南下)まで車で登って来ることができる。切り立った本丸上へは直線に階段が設けられ、階段の脇に城址碑が立っている。 
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本丸跡
本丸跡は東西50m、南北80mほどと当時の山城としてはかなり広く、北西部(写真左奥)には土塁があり、虎口のらしき跡も確認できる。また、中央部には奥州滞在時に立ち寄ったと云われている「後村上天皇聖蹟之碑」が建っている。
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本丸奥の土塁と虎口らしき跡
虎口の東側(写真右端)の土塁上には古い石碑が立っているが(刻まれた文字が小さい上、古くて不鮮明なため)何の石碑かは分からなかった。
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本丸中央部の後村上天皇聖蹟之碑と虎口脇の土塁上の石碑
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本丸北西の虎口から
虎口の下にも土塁で挟まれた曲がりくねった広い道らしきものが見えた。北西の曲輪跡への道らしいが藪が嫌で諦めた。
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本丸右手(東側)の堀切
本丸の東側(本丸への階段のすぐ近く)には明瞭にわかる堀切がある。堀切の左側(西側)上が本丸で、右側上にも曲輪跡がある。
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本丸南西下の段曲輪?
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本丸南西の段曲輪の最上段の藪道を本丸南西下に沿って北西へ向かうと本丸北西の曲輪への虎口らしきところへ出たが、これまた藪でそれ以上入って行くのは止めた(/。ヽ)。
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