太田道灌により江戸城と岩槻城を中継するために築かれた城
所在地
東京都北区赤羽西1-21-17、静勝寺
【行き方】
赤羽駅西口から線路に沿って南へ150mほど歩くと、右(西)側に高台が見える。この高台のすぐ上が稲付城跡(静勝寺)である。
赤羽駅から徒歩約5分。
形状
平山城
現状・遺構等
現状:静勝寺
遺構等:石碑、説明板
満足度(10点満点)
1点
訪城日
2008/12/11
歴史等
稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)
頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、
稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、
その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ヶ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
稲付(いなつけ)城址は、静勝寺境内や宅地等になり、遺構は全くなく、比高約20mほどの崖上にあるその地形だけが、
かつてここに城砦があったことを偲ばせてくれるだけである。
尚、昭和62年(1987)に静勝寺の南方面でマンション建設に伴う発掘調査が行われ、幅12m、
深さ8mにも及ぶ大規模な堀切が確認されたそうだ。
境内には太田道灌御影堂があり、道灌の木像が安置されている。道灌の命日である7月26日にちなんで、
毎月26日には一般にも公開されているようだ。
(2008/12/11登城して)
ギャラリー
稲付城址遠景
赤羽駅西口から線路に沿って南へ150mほど歩くと、右(西)側に高台が見えるので、右(西)
へと曲がり高台へと向かう。この高台のすぐ上が稲付城跡(静勝寺)である。遺構は全くないが、比高約20mほどの崖のこの光景が、
かつてここに城砦があったことを偲ばせてくれる。
石碑
高台(静勝寺)への石段下には「稲付城跡」の石碑が立っている。
静勝寺
この静勝寺の辺りが、本丸跡である。道灌の子孫太田資宗が堂舎を建立した。
道灌堂
道灌の木像が安置されているらしいが、中は全く見えなかった。道灌の命日である7月26日にちなんで、
毎月26日には一般にも公開されているようだ。