堀直寄が築城を始め牧野氏により完成、幕末最大の激戦・北越戦争により焼失
所在地
新潟県長岡市城内町、厚生会館(二の丸跡)
【行き方】
長岡駅の正面西200mに厚生会館があり、その西隅に城内稲荷神社がある。神社の東南隅に石碑と説明碑が立っている。
形状
平城
現状・遺構等
現状:市街地(長岡駅の辺りが本丸跡、厚生会館の辺りは二の丸跡)
遺構等:石碑、説明碑
満足度(10点満点)
0点
訪城日
2008/12/07
歴史等
戦国時代、長岡一帯を統治する拠点は、蔵王堂城であった。
慶長3年(1598)、上杉景勝が会津へ移封されると、越後の大部分は、堀秀治に与えられ、蔵王堂城には堀直寄が入城したが、
信濃川のたびたびの洪水による被害を受け、維持することが困難な状況となった。そのため、慶長10年(1605)から、
現在のJR長岡駅の西側一帯にかけて長岡城を築く工事が開始され、翌年には蔵王堂城は廃されている。
しかし、元和4年(1618)、直寄は完成を見ないまま、越後村上へと転封となり、長岡には6万4千石(のちには7万4千石)をもって、
徳川譜代の牧野忠成が封じられた。牧野氏は、堀氏の築城工事を引き継ぎ、長岡城と、その城下町を完成させた。
慶応4年(1868)の戊辰戦争で、新政府軍は会津藩を攻めるために、奥州と越後の2方面から侵攻した。長岡藩をはじめとする越後の諸藩は、
会津藩を守るため奥羽越列藩同盟に参加したので、両軍は戦闘状態に突入した。
同年5月2日、長岡藩の家老・河井継之助は小千谷で新政府軍と会談し、会津征伐中止を懇願したが受け入れられず北越戦争に突入した。
まず5月10日に戦火が開かれ、19日には長岡城が落城し、戦線は中越に広がった。
戦いは一進一退を続けたが、長岡勢は7月24日夕方から翌払暁にかけて乾坤一擲の勝負を試みて、長岡城を奪取したが、
軍事総督の河井継之助は重傷を負って戦列を離れ、多数の戦死傷者を出して、再度落城した。
落城におよんで、藩主忠訓は一族とともに会津へ逃れた。継之助は8月16日、南会津塩沢峠で没した。敗残兵は会津に奔って抗戦を続けたが、
9月25日、新政府に降伏した。
戊辰戦争が終結すると、長岡藩は7万4千石の領地を2万4千石に削減された。長岡城は戦火によって建物の大部分を失い、その後、
石垣や堀も埋め立てられ徹底的に破壊された。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「藩と城下町の辞典(東京堂出版刊)」他より』
現況・登城記・感想等
長岡城は市街地に埋もれ、全く原形をとどめておらず、街の建物などにも、往時の面影すらない。
戊辰戦争において、新兵器ガストリング砲などを用いての河井継之助以下長岡藩兵による徹底的な抗戦で、
新政府軍にも多大な損害を与えた藩であることを考えれば止むを得ないのかもしれない。
ただ、街には、雁木(町屋の軒から庇を長く張り出した通路)が目に付き、ここが雪国であることを改めて気付かせてくれる。
今日も、登城の本命は、「栃尾城、与板城、本与板城、栖吉城、蔵王堂城等々」であったが、現地の方によると、昨夜からの大雪だそうだ。
平地でこれである。山城へは、とても登れそうにないのは、自明の理だ。結局、この長岡城址碑と与板陣屋の数少ない史跡だけ見て帰ることになってしまった。
本格的に雪が積もる前の「山城登城の絶好のシーズン中」にと、慌ててやって来たのだが・・・・遅かったか(ガクッ!)。
来春、雪が溶けたらリベンジだ! それにしても、頭では分かっていたが、谷川岳の下を抜ける関越トンネルの両側でこんなにも天候が違うとは!
群馬県側は雲一つない快晴で、まさいに、『トンネルを越えると、そこは雪国だった』である。
(2008/12/07訪れて)
ギャラリー
トンネルを抜けると、そこは雪国だった
久しぶりの轍のある雪道の運転で、結構疲れた。
城内稲荷神社
厚生会館の西隅に城内稲荷神社が鎮座し、その東南隅に石碑と説明碑があるだけである。
この辺りは二の丸跡で長岡駅の辺りが本丸跡である。写真は、左から、「長岡城二の丸趾」の碑、「長岡城趾」の碑、説明碑で、一番右に
「城内稲荷神社」の石碑。