陣屋跡に鎮座する喜太郎稲荷神社と大きな城址碑
織田信長の次男信雄に始まる織田氏の藩陣屋
所在地
山形県天童市田鶴町1丁目(田鶴町公民館の南に駐車場所十分有り)
形状
陣屋
現状・遺構等
現状:市街地(田鶴町公園、公民館、喜太郎稲荷神社、宅地他)
遺構等:石碑、陣屋絵図板
満足度
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訪城日
2008/11/29
歴史等
天童藩主織田家は、織田信長の次男信雄に繋がる。信雄は、豊臣秀吉の小田原征伐後、徳川家康の関東移封に伴い、
そのあとの駿河への移封を拒んだため秀吉の怒りをかい失脚し、剃髪して秀吉のお伽衆の一人となった。
豊臣滅亡後、家康より大和と上野で5万石を与えられ、子・信良に上野小幡2万石が与えられた。
小大名であったが、家柄が考慮され、家格は加賀や薩摩の大藩と同等の待遇を受けた。
しかし、7代信邦の時、家臣吉田玄蕃が明和事件(明和4年、1767)の山県大弐と関係がったことを報告しなかったことを咎められて、
信邦は蟄居、同時に信邦の子・信浮が家督を相続したが、破格の格式は取り上げられ、陸奥信夫郡、出羽置賜・村山両郡に2万石で移封され、
置賜郡高畠に陣屋を構えた。
文政元年(1818)に信浮が没し、信美が継ぐと、天保元年(1830)本拠を天童に移し陣屋を構えた。その後、
置賜郡の領土を村山郡の幕府領と交換して天童周辺に集中することになった。
幕末動乱期に天童藩は奥羽鎮撫使先導役を命ぜられ、老中吉田大八が代理を勤めたが、庄内藩と衝突し、天童藩内は焦土と化し、保守派が台頭し、
責任をとって大八は切腹したが、のちに、尊王に捧げた功績により朝廷より神号を下付された。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」より』
現況・登城記・感想等
天童陣屋は、完全に住宅地に埋もれ、往時を偲ぶよすがもない。
喜太郎稲荷神社や田鶴町公民館へ入る路地脇に、陣屋絵図の案内板と御陣屋の松が立っている。絵図によると、
公民館の南にある児童公園辺りが御殿跡のようだ。
神社の鳥居の脇には、説明付きの大きな石碑が建っているが、読み取れなかった。
また、神社入口から東50mほどの宅地前に白くて高い「大手門跡の標柱」が立っている。
(2008/11/29訪れて)
ギャラリー
陣屋絵図
絵図によると、公民館の南にある田鶴町児童公園あたりが御殿のあった所らしい。
陣屋案内絵図板と御陣屋の松
喜太郎稲荷神社・田鶴町公民館・
田鶴町公園へ入って行く路地の脇に陣屋絵図板と御陣屋の松というのが立っている。御陣屋の松についての説明はないが、
多分当時から生えていた松なんだろう。また、この辺りは大手門の所にあたり、北進一刀流道場「調武館」と稽古所が置かれていたそうだ。
天童陣屋之碑
喜太郎稲荷神社(表紙写真)の鳥居脇には、説明付きの大きな石碑が立っているが、ほとんど読み取れない。
だいたい、この種の石碑の文字は、ここに限らず本当に読めない!!
大手門跡の標柱
喜太郎稲荷神社入口から東50m(真っ直ぐではない)の宅地前に白くて高い「大手門跡」
の標柱が立っているが、字が薄く写真には写らなかった。