平泉の街角にたつ「伽羅御所跡」の標柱
奥州藤原氏3代秀衛、4代泰衡の居館
所在地
岩手県西磐井郡平泉町平泉伽羅楽
形状
館
現状・遺構等
現状:宅地、畑
遺構等:碑、説明板
満足度
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訪城日
2008/11/27
歴史等
伽羅御所(きゃらのごしょ)は、「吾妻鏡」に「無量光院の東門に一郭を構え、伽羅と号す。秀衛が常の居所なり。
泰衡相継ぎて居所となせり」と記されている。
藤原氏3代秀衛は北方の王者と言われ、兄源頼朝に追われた義経を温かく迎えたが、秀衛の没後、鎌倉の圧力に耐えかねた4代泰衡は、
父の遺命にそむいて義経を討った。しかし、鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにあった。
文治5年(1189)8月、頼朝は28万4千騎という大軍をもって平泉を攻め、奥州藤原氏は滅亡した。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
秀衛が鎮守府将軍陸奥守に任ぜられたことで、奥州藤原3代の居館であった柳之御所が政庁としても使用されることになり、
秀衛が柳之御所の南西に、
新たに伽羅御所を建てたと見られるが、その秀衛・泰衡の居館の地も、今や宅地や畑となり、見る影もなく、
宅地の角に説明板と平泉駅から無量光院跡へと北上する道端に木の碑が立っているだけである。
(2008/11/27訪れて)
ギャラリー
住宅地の中に設置されている説明板