陸前 涌谷城(涌谷町)

二の丸跡に建てられた模擬天守(町立史料館)

涌谷伊達(亘理)氏277年の居城、伊達騒動で有名、仙台藩21要害の一つ

読み方

わくやじょう

別名

涌谷要害(わくやようがい)

所在地

宮城県遠田郡涌谷町涌谷
【アクセス】
JR涌谷駅正面から東へ500mほど直進すると江合川に架かる涌谷大橋と出る。そこから川越し北東(左前方)に模擬天守風の涌谷町立史料館が見える。涌谷神社の無料駐車場がある。
涌谷町立資料館:宮城県遠田郡涌谷町涌谷町字下町3番地2、電話0229-42-3327

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】城山公園、涌谷神社
【遺構等】現存太鼓堂(二階隅櫓)、模擬天守(町立史料館)、石垣、曲輪、空堀、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/11/27

歴史等

中世(室町~戦国期)には、大崎氏の支族涌谷氏の居城であったが、大崎氏は豊臣秀吉の小田原征伐に参加しなかった為、天正18年(1590)に滅ぼされ、涌谷氏も運命を共にした。その後一時、秀吉の家臣木村氏が封ぜられたが、葛西・大崎の一揆が発生、その平定後は伊達領となって亘理氏(のちの涌谷伊達氏)がこれを治める事となった。
亘理氏は、下総の千葉介常胤を遠祖とする。常胤は文治5年(1189)奥州征伐の功により宇多・伊具・亘理3郡(現在の宮城県南部・福島県北部)を賜り、三男の武石胤盛に伝領、胤盛より4代宗胤の時に亘理に下向し、7代広胤の時に亘理氏と改称した。そして、8代行胤の時に伊達氏の傘下に入った。
17代元宗の時の天正19年(1591)、伊達政宗の命により、亘理城から百々城(現田尻町)を経て、涌谷城に入城し、以後、江戸時代を通して、涌谷の領主となった。
涌谷城を近世城郭として整備したのは2代重守の時で、3代定宗に至って本格的な城郭として完成した。また、定宗の時の慶長11年(1606)に、伊達氏の称号と紋章を得て、「涌谷伊達氏」と呼ばれるようになった。
元和元年(1615)の 「一国一城令」 により一国又は一藩に一城が原則となり、全国で多くの城郭が破却され、大名は「陣屋」と称する防御手薄な構えで築城する事となったが、大藩には支城制を敷く特例が認められ、仙台藩は主城である仙台城と奥州に睨みを利かせる為特別に許された白石城ほか「要害」と称する21ケ所の城が築かれ、明治維新まで存続した。
尚、このような例は、仙台藩の他にも薩摩藩の「麓(フモト)」、土佐藩の「土居構(ドイガマエ)」等がある。
寛文11年(1671)、所領争いに端を発した寛文事件(いわゆる伊達騒動)で、 4代伊達宗重は、主家幼君伊達綱村の後見役伊達兵部等の専横と非違を幕府に訴えて明らかにしたが、原田甲斐の凶刃に倒れた(尤も、いろんな説があるようだが)のは有名な話である。
『「現地説明板」、「涌谷町立資料館パンフレット、印刷物、展示」他参照』

現況・登城記・感想等

JR涌谷駅正面から東へ500mほど直進すると江合川に架かる涌谷大橋へと出ます。そこから川越し北東(左)に天守風の模擬櫓が見えてきます。
小ぶりながらも天守風の模擬櫓ですが、歴史民俗史料館として使用されています。
模擬櫓(天守)の横には、天保4年(1833)の再建と言われる「太鼓堂(二階隅櫓)」が建ち、その下には、2003年7月26日発生した宮城北部連続地震で一部崩落・ゆがみ等の被害を受け、積み直し復元されたという石垣があります。
この石垣、大して高くはないものの、修正復元部分の石垣の反り具合は、元々、本当にこんなに凄い反りだったのかと疑いたくなるほど尋常ではありません。
太鼓堂の横の石段を登った丘の上の平場が二の丸のようです。涌谷城は、高さ10~20mほどの丘を中心に築かれた平山城で、東西109m、南北327mの長方形をしているそうですが、確かに実に細長いのに気が付きます。
また、それほど高くはないものの、非常に眺望は良く、江合川が水堀として利用されていたのがよく分かります。
北西端の高台が本丸のようで、今は涌谷神社が鎮座しています。
その本丸跡の奥は崖となり、木立の中に空堀が残っているのが確認できます。
(2008/11/27登城して)

ギャラリー

涌谷城遠望
JR涌谷駅正面から東へ500mほど直進すると江合川に架かる涌谷大橋と出ます。そこから川越し北東(左前方)に模擬天守が見えてきます。
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登城口
涌谷城跡の城山公園入口には涌谷神社の石碑と大鳥居が立ち、背後に模擬天守と太鼓堂(二階隅櫓)が見えます。
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太鼓堂と模擬天守
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模擬天守
小ぶりな天守風の模擬櫓ですが、歴史民俗史料館として使用されています。
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太鼓堂(二階隅櫓)
かなり小さな櫓ですが、宮城県下で唯一の現存櫓だそうで、天保4年(1833)の再建と言われ、屋根には仙台藩一門の象徴として鯱があげられています。
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太鼓堂下の石垣
太鼓堂の下には、2003年7月26日発生した宮城北部連続地震で一部崩落・ゆがみ等の被害を受け、積み直し復元されたという石垣があります。この石垣、大して高くはないものの、その極端な反り具合は、積み直し前も、本当にこんなに凄い反りだったのかと疑いたくなるほど尋常ではありません。
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二の丸
太鼓堂の横の石段を登った丘の上の平場が二の丸のようですが、実に細長い曲輪です。
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二の丸からの眺望
城跡(二の丸跡)は、それほど高くはないものの眺望は良く、江合川が水堀として利用されていたのがよく分かります。
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本丸跡への石段
一番北の高台上が本丸のようですが、今は4代宗重を祀った涌谷神社が鎮座しています。
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本丸跡に鎮座する涌谷神社
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空堀
神社本殿裏の雑木の中に空堀が確認できましたが、この写真じゃあ分からないですよねえ?(汗)
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