本丸南下の内堀(薬研堀)
亘理伊達氏の城、片倉小十郎景綱の居城であったことも、仙台藩21要害の一つ
別名
臥牛城、亘理要害
所在地
宮城県亘理郡亘理町旧館
【アクセス】
亘理署の前を通る県道14号線を300~400mほど東進した右手(南側)の高台(亘理要害の大きな看板が見えます)が本丸跡)で、亘理神社が鎮座しています。交差点から200~300mほど進んだ辺りの左手(北側)にある駐車場に停めました。
亘理警察署:亘理町字旧舘61-21、電話0223-34-2111
所要時間
今回の見学総時間は約25分
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 旧舘公園、亘理神社
【遺構等】 曲輪、土塁、水堀、標柱、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2015/10/27
歴史等
亘理城の創建についてはよく知られていないが、天正年間(1573~92)亘理元宗が築城し、小堤城からこの地に移ったと言われる。
亘理氏は天正19年(1591)に涌谷に移封となり、そのあとに片倉小十郎景綱が入った。
関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)、景綱が白石城に移ったため、慶長8年(1602)伊達成実が亘理城に入った。亘理伊達氏は伊達家一門の家格に列せられ、以後明治まで亘理伊達家の居城となった。
亘理城は城に準じて正式には亘理要害と呼ばれ、仙台藩内にあった21ヵ所の*要害の1つであった。
『日本城郭大系3他参照』
*「一国一城令」 により一国又は一藩に一城が原則となり、全国で多くの城郭が破却され、大名は「陣屋」 と称する防御手薄な構えで築城する事となったが、大藩には麓(薩摩藩)、要害(仙台藩)、土居構(土佐藩)など、支城制を敷く特例が認められた。
現況・登城記・感想等
亘理城跡は、ほとんどが市街地となり埋まってしまっていますが、亘理神社が鎮座する本丸跡は土塁・堀などの遺構が比較的良好に残っています。
特に、本丸南側下の内堀の一部は、原状をよく留めているようです。
ただ、本丸の東部分を真っ二つに断ち切った切通し状の道路が、何とも恨めしい。
(2015/10/27登城して)
ギャラリー
亘理城の縄張りと現況(現地説明板より)
亘理城は、亘理丘陵から東にに向かって突きだした標高15mの細長い丘陵先端部を利用して築かれています。現在、丘陵上の本丸が亘理神社の境内となり、西側の馬場が亘理高校の敷地となり、東側の二の丸他の曲輪群は市街地となっています。
本丸跡
本丸跡には亘理神社が鎮座しています。
本丸東部分を分断する道路
本丸の東部分は、無残にも道路で分断されています。
本丸東端部
本丸東端部は裏門や詰門があった場所で、土塁が良好に残っているようですが、入って行くことは出来ないようです。当写真は、道を挟んだ本丸から撮ったものです。
本丸跡に立つ「亘理神社の碑(伊達成実伝)」
亘理伊達家初代成実(しげざね)は、伊達一門である伊達実元(さねもと)(政宗の祖父晴宗の弟)の長男として、永禄十一年(1568)信夫郡(現福島市郊外)大森城に生まれた。母は伊達晴宗の娘である。
十七歳の時父の跡を継いで、一歳年上の伊達家当主政宗公に仕えた。
若くして武勇の誉れ高く、天正十二年(1585)の人取橋の合戦には、劣勢だった政宗軍の形成を逆転させた。以後、摺上原の戦い等、戦いのたびに功績をあげて、「炎の闘将」の名を天下にとどろかせた。
豊朝秀吉時代、政宗が”逆心”の疑念をうけた時には、人質となって伊達家のために尽くしたものの、一時政宗と不仲になり高野山にこもった。
しかし、関ヶ原の戦いがおこると急ぎ帰り、上杉方白石城を攻め、その功績により晴れて慶長七年(1602年)亘理領主となった。その後、城下町亘理を建設する一方、新田開発を盛んに行って領内を治めた。同時に仙台藩主政宗公の片腕として、数々の重責を果たした。
また、成実は、深い教養を備えた人物であった。彼が著した「成実記」には、政宗公が仙台藩を築いた時期の歴史的記録としても貴重である。
政宗公の九男宗実を後継ぎとして迎え、終生、仙台藩への忠誠を貫き、その安泰に尽くして、正保三年(1646年)七十九歳で生涯を閉じた。
明治十二年、成実は亘理神社に祀られ(神号武早知雄命)、同三十年、成実の生涯を刻んだ碑がここに建立された。
昭和六十二年九月再建 亘理町教育委員会 (現地説明板より)
本丸南辺の土塁
本丸の南辺には、高さ2m前後の土塁が残っています。
忠霊塔
本丸西端部は分厚い土塁(土壇)となっており忠霊塔が建っています。往時は、土壇に何らかの建物が建てられていたことでしょう。
戊辰碑
本丸西端の土壇上には「戊辰戦役之碑」と「戊辰殉難五十年祭紀念碑」が立っています。仙台藩は戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟の代表格となりました。しかし、新政府軍には勝てず、仙台藩は降伏、亘理領からは33人の戦没者を出しました。これらの霊を慰めるために、明治30年(1897)に戊辰戦役の碑が、大正6年(1917)には戊辰殉難50年祭記念碑が、現在の大東亜戦争忠霊塔の後ろの位置に建てられました。ちなみに、戊辰戦争における仙台藩降伏調停がなされたのも、旧亘理要害跡である現亘理神社です。
内堀
往時は、亘理城の本丸周囲を内堀が囲み、二の丸を含む城域周囲には外堀や大沼がめぐっていましたが、ほとんどが消滅し、この本丸南下の内堀の一部のみ往時の原状を残しています。本丸跡には「牛たん沼」となっていましたが、ここの説明板には「薬研堀」乃至「薬研沼」と呼ばれていたとなっていました。