本丸に復元された天守閣(三階櫓)
伊達家名参謀片倉小十郎が入城、以後片倉氏260余年の居城
別名
益岡城、桝岡城
所在地
宮城県白石市益岡町1-16(益岡公園)
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】益岡公園、白石高校
【遺構等】石垣、土塁、井戸、復元天守(三階櫓)・復元城門(大手一ノ門、二ノ門)、石碑、説明板、移築城門(当信寺に東口門、延命寺に厩口門)
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/08/14
歴史等
後三年の役(1083~87)で、源義家に従って戦功をあげた藤原(刈田)経元が、この地を領し、寛治年中(1087~94)居館を構え、以来、5代101年居城したと伝えられる。
その後、白石氏が文治5年(1189)より15代397年間居城したと伝えられる。白石宗実の代の天正14年(1586)に宮森城へ移り、伊達家臣屋代景頼が入るが、天正19年(1591)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地を没収し、蒲生氏郷に与えた。
氏郷の家臣蒲生郷成は、新たな縄張りをして、城下町を含み城郭を築城し、城主となった。
その後、慶長3年(1598)上杉領となってから上杉氏家臣甘糟清長は白石城の再構築を行い居城した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、この地は再び伊達領となり、伊達氏家臣石川昭光が2年間入城した後、慶長7年(1602)片倉小十郎が1万7千石を与えられて入城し、大改修を行い、以後明治維新まで260年間片倉氏の居城となった。
元和元年(1615)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から仙台城(青葉城)と白石城の2城が許され、明治維新には奥羽越31列藩同盟がこの城で結ばれた。
しかし、戊辰戦争において敗れ、仙台藩は賊軍となり、62万石の禄高を28万石に減らされた。そして白石の地は新政府軍に没収の上、同じく負け組の南部藩に与えられた。南部藩も20万石を13万石に減らされての移封であった。
一方、1万8千石を与えられていた片倉家への支給は、年間55俵の玄米だけとなり、900名近い藩士と、その家族は路頭に迷うこととなり、旧片倉家中の約220戸(当初は1,000戸近かったが、南部藩が旧領に復帰し、白石城の管理が片倉家に戻ったため減った)が新天地蝦夷の地へと渡り、酷寒に耐えながら、広大な原野を切り開いた。それが、現在の札幌市白石区である。
『「現地説明板」、「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」より』
現況・登城記・感想等
自分だけの勝手で、どうでもいいことだけど、伊達政宗が好きではない私も、片倉小十郎(景綱、重長共に)は、真田幸村との関係等々からイメージが良い。
白石城は、想像通りだが、木造で復元された天守(三階櫓)、大手一ノ門・二ノ門のセットはこじんまりとしているが綺麗で、感じも良かった。また、天守上からの白石市内の眺望もなかなかのものだ。
さらには、本丸周囲の土塁が往時の趣きを偲ばせてくれる。
本当は、二の丸や武家屋敷等々も見て廻りたかったが、何せ炎天下のとんでもない暑さで、とてもとても・・・。
というわけで、一ノ門前の茶店でカキ氷を食べて車の中へ退散・・・。ところで、この店のカキ氷、かかっているイチゴシロップが本当に僅かで、ただの氷を食べている感じだった(苦笑)!。
(2007/08/14登城して)
ギャラリー
一ノ門の手前の井戸屋形
白石城(本丸)内へは、一ノ門から入城するが、その手前(御三階櫓の北側下)に古絵図に描かれた井戸屋形が復元されている。
大手一ノ門(復元)
復元された大手一ノ門をくぐって本丸内へ向かいます。一ノ門は土塀で囲み、二ノ門前で折り曲げて敵兵の進入を妨げている。
大手ニノ門と復元された御三階櫓(天守)
ニノ門をくぐって本丸跡へ入り振り返ると背後に御三階櫓(天守)が見える。
御三階櫓(天守)
白石城大櫓は正保3年(1646)頃に二層から三層に変更になったようである。その御三階櫓は文政2年(1819)に全焼し、同6年頃に再建されたが、明治5年(1872)に解体された。
平成7年(1995)に幕末頃の御三階櫓(天守)が大手一ノ門、大手二ノ門とともに木造にて復元公開された。
本丸中央に建つ「片倉小十郎景綱頌徳碑」
白石城片倉氏と言えば、やはりこの初代景綱と2代重長ですよねえ!?
裏御門跡
この感じ、古城っぽくて何とも云えずいいですよねえ。この門の外は白石高校校舎が建っていた。
こんな所で学べるのっていいですよねえ?!
本丸周囲に一部残る土塁
当写真の土塁は裏門から延びる土塁であるが、かなり多くの部分の土塁が残っている。