義経堂への入場口
源義経が奥州藤原氏4代泰衡に襲われ自害した地
読み方
たかだち ぎけいどう
別名
判官館(はんがんだて、ほうがんだて)、衣川館(ころもがわのたち)
所在地
岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所
(中尊寺入口駐車場から義経堂下駐車場まで南西へ350m~400m)
形状
館
現状・遺構等
遺構等:曲輪、空堀、土塁、碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/11/27
歴史等
高館は北上川に面した丘陵で、判官館とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。
兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。
しかし、文治5年(1189)閏4月30日、頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。
丘の頂上には、天和3年(1683)、仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木造が安置されています。
高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)が見えます。また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。
『高館義経堂受付にて配布のパンフレットより』
現況・登城記・感想等
高館義経堂(たかだちぎけいどう)は、中尊寺のすぐ南西部の小高い山にある。
仙台藩主4代綱村が建てたという義経堂の裏に空堀や土塁が残り、周りには削平地が何段かあるが、曲輪跡なのだろう。
当時から要害地であっただけに、義経堂からの眺望は素晴らしい。
尚、吾妻鏡によると、義経は「衣河館」に滞在していたところを襲われとあり、この高館が、その「衣河館」と伝えられてきたが、最近では奥州市衣川区七日市場の接待館が「衣河館」であるとする説があるそうだが?!
(2008/11/27登城して)
ギャラリー
㊧義経堂への石段、㊨義経堂
義経堂内には本尊として、堂創建時に製作された木造の源義経像が祀られている。右写真の右奥の宝篋印塔は、源義経主従の供養搭で、昭和61年に藤原秀衛、源義経、武蔵坊弁慶800年の遠忌を期して造立された。
空堀
堂の裏には、土塁と空堀がはっきりと確認できた。
眺望
高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)が見えます。また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。(説明板より)
松尾芭蕉句碑 『夏草や 兵どもが 夢の跡』
元禄2年(1689)旧暦5月13日(6月29日)に、芭蕉が、門人曽良を伴い、この高館に立ち、かの有名な句を詠んだと言われている。
伝説義経北行コース
義経の短くも華麗だったその生涯を想い、「義経は、1年前にひそかに平泉を脱出し、北を目指して旅に出た」という伝説が作り上げられた。世に言う『判官びいき』である。その伝説では、「この館で自刃したのは影武者杉目太郎行信であって、義経は、その1年前に館を出て、束稲山を越え、長い北の旅に出た」というものである。この「伝説北行コース」は、こうした伝説の残る地点のいくつかを結んだもので、この高館が起点である。(現地説明板より)
ジンギスカン説などがそうであるが、そう言えば、北海道にも一杯あったなあ!