城址である東根小学校に築かれた模擬石垣と城壁
南朝方の将・小田島長義が築城、その後最上氏一族東根氏の居城に
別名
小田島城
所在地
山形県東根市東根、東根小学校一帯
東根小学校:東根甲1912、電話0237-42-1200
形状
平城
現状・遺構等
現状:東根小学校(本丸跡)、愛宕神社・東根児童館(二の丸)、養源寺(三の丸)
遺構等:曲輪、土塁、堀、模擬石垣、模擬城壁、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2008/11/29
歴史等
東根城は、南北朝時代の正平年間(1346~1369)に南朝方の将・小田島長義により築かれたと伝わる。
長義は、もとは三浦姓を名のり、鎌倉幕府の重臣として源頼朝に仕えていたが、その後、北条氏との勢力争いに敗れ、
荘園のあったこの地に逃れて居をかまえたといわれる。小田島姓も、また東根市内の小田島、新庄市内の小田島という地名も、
当時乱川以北から最上一帯にかけて小田島庄といわれていたのに起因するという。
小田島氏の在城期間は短く、まもなく足利尊氏が小田島庄を清川の結城顕朝に換給したため、長義は新庄小田島に城を築き頼朝の支配下に入った。
その後、応永2年(1395)には、最上氏の一族・里見頼高が入城した。以後、その子孫が東根氏を称して7代の頼景にいたった。
その頃(天正8年、1580頃)、最上義光は天童城の天童頼久を滅ぼし、
最上八楯ほか、天童氏の版図の掃討を開始した。その一番手に狙われたのが頼久の弟頼景の拠る東根城であった。
天童城攻撃の時と同様、義光は諜略により重臣里見景佐の内応を取り付けた。景佐は義光に通謀して兵を借り、
自ら城攻めを行なって主君を討ち取った。
この一戦ののち、多くの楯主たちは降伏し、或いは逃げ去っている。
東根城は、このあと景佐に与えられたが、最上氏の改易により、廃城となり、里見は阿波徳島蜂須賀家にお預けの身となった。
『「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」、「山形新聞・ふるさとの城」より』
現況・登城記・感想等
東根城址は、遺構はほとんど残っていないが、本丸跡は東根小学校となり、模擬石垣と模擬城壁が造られ、
城跡であったことを物語っている。
校門を入ると、左手には樹齢1500年以上という大ケヤキが聳えている。
また、小学校の北側にある龍興寺沼・光専寺沼・中沼などは、堀の役目をしていたのであろう。往時を偲ばせる。
(2008/11/29訪れて)
ギャラリー
㊧東根小学校校門、㊨小田島城址碑
㊧本丸跡は東根小学校となり、模擬石垣と模擬城壁が造られ、城跡であったことを物語っている。
この写真から右へと、表紙写真のように石垣・城壁が続く。写真左の大きな木が大ケヤキ。㊨入城すると、左手(写真中央)には
「小田島本丸の趾」、右手には同じ形の「東根小学校」の石碑?が立っている。
大ケヤキ
「雄槻」、「雌槻」と呼ばれた二本の大槻があったが、明治18年「雄槻」が枯れてしまい、「雌槻」
だけが現在残る。樹齢1500年以上で、地上2mの幹周は16m、直径5mで、高さは約18mに達する。
(現地説明板より)
本当に驚くほどデカイ!!先日行った神指城址の大ケヤキも凄いと思ったが、
これはそれ以上だ。
光専寺沼(小学校の北東)
小学校の北側にある龍興寺沼・光専寺沼・中沼などは、堀の役目をしていたのであろう。
龍興寺沼(小学校の北西)
写真左奥には月山が薄く見えたが、写真には無理だった。