主郭に残る物見櫓の土塁
宗家最上氏をも凌ぐ勢力を誇った最上八楯の筆頭天童氏の本城
別名
舞鶴城
所在地
山形県天童市天童(舞鶴山公園)
形状
山城(標高242m、比高133m)
現状・遺構等
現状:舞鶴公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、空堀?、土橋?、説明板
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2008/11/29
歴史等
天童城は、山形に入部した斯波兼頼の孫・最上頼直が天授元年(1375)に築城し、その子孫が代々、天童氏を称して居城したが、
当初から庶子たちを各地に封じて領域を広め、宗家の山形城の最上氏とも対立しがちであった。
11代頼久の頃には、延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生のいわゆる「最上八楯」の楯主を従え、村山地方の北半分をその版図とした。
そうした脅威を背景に、最上義光が弟の中野義時と争った際には、頼久は伊達輝宗と結んで最上一族の中で最も強力に義時を支援した。
最上義光はこの抗争で、一族に対する不信と憎悪を抱き、その根絶やしを決意した。そして、その第一の標的が天童頼久であった。
天正5年(1577、天正12年説もある)最上義光は大軍を発して天童城に襲い掛かった。しかし、天童城も最上八楯からの援軍を集めて、
容易には崩れない。
義光は強攻の不利を悟り、八楯の楯主たちの切り崩しを策した。八楯の楯主の中で最も強敵である延沢城主延沢満延に、
娘を満延の嫡子に嫁がせるという条件で和睦を申し入れ、内応を取り付けた。これを知った他の楯主や天童氏の重臣の中に内応する者が続出した。
頃はよしと見た義光は、延沢満延に先鋒を命じ、一挙に天童城を攻め落とした。天童頼久はからくも城を脱出し、陸奥に逃れ、
のちに伊達家に仕えている。
天童城は落城後、廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)より』
現況・登城記・感想等
天童公園(舞鶴公園)の駐車場のすぐ北に見える山が天童城址である。
10分ほどで、頂上部の主郭に着くが、途中、藪になっているが何箇所か削平地があるが、曲輪跡であろう。尾根はいくつもあり、
それらの尾根にも段曲輪が連なっているようだが、昨晩からの強烈な腹痛、下痢、嘔吐、おまけに藪もひどく確認するのは諦めた。
また、土橋のような地形もあり、その両側に空堀跡らしき窪地もあったが判断できなかった。
頂上部の主郭は、山城としてはかなりの広さをがあり、歩数で測ったわけではないが、40~50m×200m弱ほどの長方形である。さすが、
宗家最上氏をも凌ぐ勢力を誇った天童氏の本城だけのことはある。説明板によると、「山形県随一の規模を誇る山城」とある。
東の方(一番奥)には、最上義光が建立したという愛宕神社が鎮座し、その手前には高さ4mほどの土塁があるが、物見櫓台とのことだ。
(2008/11/29登城して)
ギャラリー
天童公園
この天童公園までは車で登ってこれる。実に広い公園で、写真手前に、これまた広い駐車場がある。さすが、
天童の公園だけに、はるか遠くに見える石碑は、将棋の駒である。
間抜けなことに最初はここが天童城址と勘違いし、「さすが、山形県随一の山城だ。実に広い曲輪跡(主郭)だ~!」なんて感心してしまった。
いくら何でも、当時山上にこれだけ広い曲輪は造れないよねえ!
天童城址全景
天童公園駐車場のすぐ北の山が天童城址で、ここから登って行ける。主郭は左の峯上だ。
曲輪跡
登り始めると、曲輪跡とおぼしき削平地が塁段になっている。藪だらけで、
この写真じゃ分かるわけないですよねえ(苦笑)!
土橋?と空堀?
土橋のような地形もあり、その両側に空堀跡らしき窪地もあったが自信はない。
主郭には愛宕神社が
山頂部が主郭跡で、最上義光がこの天童城を攻略した後すぐに造営したという愛宕神社が鎮座している。
神社の左手前は物見櫓の土塁。尚、周りの木々に遮られ、眺望はあまりよくない。
物見櫓の土塁
土塁は、神社を少しだけ囲むように左奥へと延びている。