岩代 神指城(会津若松市)

僅かに残る土塁の全景

上杉景勝が徳川家康との決戦を想定して築き始めた未完成の城

読み方

こうざしじょう

所在地

福島県会津若松市神指町高瀬字5百地

形状

平城

現状・遺構等

【現状】田畑
【遺構等】土塁、石垣の基礎石、説明板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2008/09/30

歴史等

慶長3年(1598)に120万石の太守として会津若松城主となった上杉景勝は、石田三成と共同謀議して徳川家康を討とうとした。
まず、景勝が会津で挙兵し、家康が討伐に東国へ向かった隙に三成が上方で挙兵し、東西から家康を挟み撃ちにしようという戦略である。
そのために景勝は若松城の北西、神指ケ原に新城を築き始めた。工事は会津一円をはじめ仙道(福島県中通)、越後方面から12万人の人夫を狩り集め、慶長5年(1600)2月から昼夜兼行で進められた。
この築城に神経をとがらせた家康は、再三使者をもって「新城を築いたり、武具を集めたりしているとの風評であるが、おだやかではない。上洛して弁明せよ。」と申し送った。
これに対して景勝の家老直江兼続は、「上方の武士は茶道具などをお集めだろうが、田舎武士は槍、鉄砲、弓矢などを集めている。その国々の風俗だと思われたい」といった痛烈な返答を叩きつけた。世に「直江状」と呼ばれる。
怒った家康は、6月に会津討伐のため大軍を率いて、東国へ向かった。
その留守に石田三成が予定通り挙兵したが、引き返して行った家康は9月15日、関ヶ原で三成の西軍を粉砕した。
夢破れた景勝は翌年7月、上洛して家康に臣従を誓った。家康は景勝から会津、仙道の領地を召し上げ、30万石で米沢へ移封した。同時に、神指城も完成をみることなく廃城となった。
『歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)より』

現況・登城記・感想等

田圃の中に「高瀬の大木」が聳える土塁跡が一部残っているだけで、若松城以上の城を築いていたという面影は全くなく、今では「高瀬の大木」の方が有名なようだ。
「高瀬の大木(ケヤキ)」は往時から御神木として崇められていたであろうから、この丘(土塁)にしても、この大木が聳えていなかったら、当然壊されていたに違いない。
それにしてもデカイ木だ!しかもケヤキである。楠の木でさえこれだけ幹が太いのは見たことがないw(*゚o゚*)w
(2008/09/30訪れて)

ギャラリー

石垣の基礎石
ここより南方300mの本丸へ、慶山村(現・東山町)の山中から運んだと云われる石垣の基礎石で、昭和58年にここに移して保存されている。
DSC02228

神指城跡説明板
「高瀬の大木」の後ろの少し高くなっている場所(土塁?)に簡単な城址説明板が設置されている。
DSC02233

「高瀬の大木(ケヤキ)」(国指定天然記念物)
神指城の東北隅にあったそうで、築城前から既に大木で、根元の周囲12.55m、目通り幹囲10.45m、樹高24.64mもあるそうだ。それにしてもデカイ木だw(*゚o゚*)w
DSC02231

DSC02236

DSC02235

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント