柳之御所遺跡南端部発掘調査風景(第69次調査)
奥州藤原氏栄華の館
別名
平泉館(ひらいずみのたち)
所在地
岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所(柳之御所資料館の北)
柳之御所資料館:平泉町平泉字伽羅楽108-1、電話0191-34-1001
形状
館
現状・遺構等
【現状】発掘調査中(近い将来史跡公園に)
【遺構等】堀跡、曲輪跡、建物跡、庭園跡、道路跡、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/11/27
歴史等
前九年の役、後三年の役を経て、東北地方の支配者となった奥州藤原氏の初代清衡は平泉に居を構え、以後、2代基衡・3代秀衛のもとで栄華を極めた。
平泉は12世紀の約100年間、京都に並ぶ日本有数の都市として独自の発展を遂げた。光り輝く中尊寺金色堂、極楽浄土を表現した毛越寺庭園が今に残り、仏教を厚く信仰した奥州藤原氏を偲ばせる。
秀衛は、兄源頼朝に追われた義経を温かく迎えたが、秀衛の没後、鎌倉の圧力に耐えかねた4代泰衡は、父の遺命にそむいて義経を討った。
しかし、鎌倉の本心は義経追討を口実にした平泉の存在そのものにあった。文治5年(1189)8月、頼朝は28万4千騎という大軍をもって平泉を攻め、奥州藤原氏は滅亡した。
以後、時代の移り変わりの中で平泉は伝承の中に埋没していったが、昭和63年から始まった柳之御所遺跡の発掘調査により、巨大な堀跡、橋脚跡、大規模な建物跡、池跡など、次々にその姿が明らかにされた。
これにより柳之御所遺跡は、都市平泉の中心的な役割を担っていたことが明らかにされ、「吾妻鏡」に記された、奥州藤原氏の政庁跡「平泉館(ひらいずみのたち)」と考えられるようになった。
『「柳之御所資料館パンフレット(岩手県教育委員会作)」、「伽羅御所説明板」』
現況・登城記・感想等
柳之御所遺跡は柳之御所資料館の北側にあり、東京ドームの2.5個分にあたる11.2万㎡の広さがあり、現在は道路で南北に2分されている。
昭和63年(1988)から6年間にわたって大規模な発掘調査が行われ、今尚断続的に調査が行われ、69次にもなっているようである。
今回の訪問時も道路を挟んで南側は発掘最中のようであったが、堀跡がよく分かった。地中から現れた、その堀の巨大な姿は見応え満点であり、その発掘風景には迫力さえ感じた。
また、道路の北側は調査がほぼ終わったようで、史跡公園造りの真っ最中のようであった。工事中であったが、現場の方にお願いし、中に入れてもらった。
だだっ広い中に、大きな建物跡や池跡等々を見つけることができ、随所に説明板も設置されつつあるようだった。完成が楽しみである。
(2008/11/27登城して)
ギャラリー
柳之御所遺跡南端部発掘調査風景(第69次調査)
堀跡は遺跡の中心部を囲うように走る。長さは約60mという長大な遺構である。外堀は幅約6m、深さ約2.5mで、内堀は幅約15m、深さが約4mある。
北部は史跡公園造成中(2008/11/27現在)
御所遺跡北部は、ほぼ調査が終わったようで、史跡公園造成中であったが、作業の方に頼んで入れてもらった。兎に角、広いのに驚いた。着々と工事は進み、随所に説明板が設置されていた。
池跡
遺跡からは池跡も発見された。公園完成が楽しみだが、今度はいつ来れるかな??
建物跡
建物跡は埋め戻されて、コンクリートで固められているようだったが、これも致し方ないところかな?
【奥州藤原氏栄華の跡】
(無量光院・本堂跡)
藤原秀衛により宇治平等院鳳凰堂を模して建立され、阿弥陀堂を中心に伽藍が構成されていた。奥州藤原氏滅亡後、焼失して境内は荒廃したが、堂跡、池跡の遺構が良好に残っている。
(中尊寺金色堂)
勿論、金色堂は写真奥の覆堂の中に保護されており、内部の金色堂は撮影禁止。1124年に藤原清衡により建立されたもので、奥州藤原氏が造立した現存唯一の建造物である。
今回の東北旅行は会社時代の友人・仲村さん、友井さんと一緒でした。
(毛越寺本堂)
毛越寺は、藤原基衛、秀衛親子によって造営された。藤原氏滅亡後、伽藍中心部が焼失、近世までに往時の堂塔が消失したが寺院は存続した。