羽前 長瀞城(東根市)

今も満々と水を湛える二ノ堀

最上氏傘下の城、江戸後期には徳川16武将の一人米津常春の裔が陣屋を

別名

長瀞陣屋(江戸後期)

所在地

山形県東根市長瀞、長瀞公民館の西
長瀞公民館:電話0237-42-0301

形状

平城、陣屋

現状・遺構等

【現状】 宅地
【遺構等】 曲輪、水堀、石碑、絵図板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/11/29

歴史等

鎌倉時代あるいは南北朝時代に西根氏の築城とされるが不詳。
城についてはっきりしてくるのは最上氏の時代で、最上氏4代目の山形城主最上満家がこの地に隠居したという。
その後は天童氏が支配したとされ、同族の最上義光が天童氏を滅ぼすと、義光の傘下に入った。義光の弟に長瀞義保がいるが、居城したとも、しなかったともいわれる。
元和8年(1622)に最上氏が改易されると、この地は山形藩主になった鳥居忠政の領地に属したが、寛永20年(1643)から天領となった。
その後、寛政10年(1798)武蔵久喜1万1千石の藩主米津(よねきつ)通政が領地6千4百余石を村山郡内に移され、長瀞に陣屋を構えて、長瀞藩を立藩し、代々米津氏が治政し幕末を迎えた。
藩主の祖先米津藤蔵常春は、徳川草創期の16武将の一人に数えられる。
幕末の藩主政明は庄内藩鶴ヶ岡城主酒井忠器の七男という父子関係から、奥羽越列藩同盟に参加したため、慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、天童藩の攻撃を受けて陣屋は陥落、政明・政敏父子は実家の庄内へ逃れた。
翌年、政敏の時、上総大網1万1千石へ転封した。
『「藩と城下町の辞典(東京堂出版刊)」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」、「 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)」参照』

現況・登城記・感想等

絵図板によると、長瀞城は、輪郭式に三重の水堀(一の堀、二の堀、三の堀)を巡らした城だったようだ。
二の堀は概ね現存し、今も満々と水を湛え、往時の雰囲気を伝えている。
二の堀に囲まれた二の丸と本丸跡は住宅地となり、家々が立ち並んでいる。
本丸の周囲にあった一の堀は一部埋められ道路や排水溝になり、本丸の中央には「陣屋跡」の碑が立っている。
また、二の丸東虎口(大手口)には、立派な城址碑と案内絵図板が立っている。
(2008/11/29登城して)

ギャラリー

絵図
絵図によると、長瀞城は輪郭式に三重の水堀(一の堀、二の堀、三の堀)を巡らした城だったようだ。

ニの堀
二の堀は概ね現存し、今も満々と水を湛え、往時の雰囲気を伝えている。二の堀に囲まれた二の丸と本丸跡は住宅地となり、家々が立ち並んでいる。

一の堀
本丸の周囲にあった一の堀は一部埋められ道路や排水溝になっている。

陣屋跡の碑
本丸の中央には陣屋跡の小さな碑が立っている。

大手門跡
本丸への東虎口には大手門があり、今は小さな石碑が建てられている。

長瀞城址碑
二の丸東虎口(大手口)には、立派な城址碑と案内絵図板が立っている。

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