相見川の土手上の道路脇に建つ城址碑
家康が設置した岡崎三奉行の一人・高力清長の父祖代々の居城
所在地
愛知県額田郡幸田町高力字熊谷
【行き方】
国道248号「弁天信号」を西へ入り、800m程西進して左折し、県道483号に入る。
1km程南下すると相見川に架かる熊谷橋の手前右の道路脇に城址碑が設置。尚、駐車場もスペースもない。
形状
平城
現状・遺構等
現状:宅地
遺構等:石碑
満足度
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訪城日
2009/05/07
歴史等
岡崎三奉行の高力与左衛門清長の父祖代々の居城である。
天文21年(1552)から徳川家康に仕え、天野康景や本多重次らと共に家康三河時代の岡崎三奉行の一人として重用された。康景は慎重、
重次は剛毅、清長は寛大と評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」という様に、「仏高力」として名が知られている。
家康には奉行として重用されたが、桶狭間の戦いでの大高城兵糧入れ、
三河一向一揆の鎮圧、遠州平定戦、小牧・長久手の戦いと徳川氏における主要な戦いの多くにも参加して武功を挙げ、
朝鮮の役では軍船建造を担当し、家康の覇業に大いに貢献した譜代中の譜代の家臣である。
天正18年(1590)、それまでの功により武蔵岩槻城2万石の城主となった。
現況・登城記・感想等
「仏高力」と言われた高力清長の父祖代々の城も、遺構は何も残らず、相見川の土手沿いの道の脇に石碑が設置されているだけである。
石碑には、説明文が彫られているようだが、例によってとても読めない。
石碑前の道を進むと、低くなり、城跡の辺りが高台になっているのが、それとなく城跡のように感じられないこともない・・・?
(2009/05/07訪れて)