遠江 千頭峯城(浜松市三ヶ日町)

西曲輪と二ノ曲輪間の堀切

南北朝時代に南朝方についた井伊氏の本拠三嶽城の西方を守る支城

読み方

せんとうがみねじょう

所在地

静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶
【アクセス】
摩訶耶寺の西下の道路を800m程北上して右折し(案内有)、400m程南下してトンネルをくぐります。トンネルを抜けると、すぐ右手に説明板が立ちmその奥に未舗装の駐車場があります。ここから案内に従って北へ登ると城跡です。尚、摩訶耶寺境内から尾根筋を登るコースもありますが、こちらの道は後世造られた道で、かなり険しいようです。
摩訶耶寺:三ヶ日町摩訶耶421、053-525-0027

所要時間

駐車場から本曲輪まで13~14分、今回の見学総時間は55分でした。

形状

山城(標高137.8m、比高約100m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、井戸、千頭峯城戦没者慰霊碑、遺構案内板、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2014/05/14

歴史等

千頭峯城は、南北朝時代に引佐地方を本拠とした井伊氏を主力とする南朝方城砦群の一つで、井伊谷の三岳城を本城に、南に鴨江城、東に大平城、北に天山城、そして西にこの千頭峯城を配していたもので、井伊氏の一族奥山朝藤の一党が守備に就いていたものと思われる。
守将・奥山朝藤は、北朝方の武将・高師兼率いる大軍に攻められた際に、南朝方の延臣や浜名神戸庄庄官・県氏、大江氏をはじめ数百名で当城に籠城したが、3ヶ月の攻防の末、暦応2年(1339)落城した。
戦国時代には、今川氏が本坂峠及び奥三河筋に対して構えた境目守備の城であった。桶狭間合戦で今川義元が討死したあとの永禄5年(1562)には、今川氏真の将・朝比奈氏が今川家を離反する東三河の西郷氏の三河五本松城を攻撃した時、当城は駐屯地として利用されたと思われる。
また、徳川家康の遠江侵攻以後にも利用されたと思われる。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」、「静岡の山城・ベスト50を歩く、加藤理文・中井均編(サンライズ出版刊)」、「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

千頭峯城は通称「センドウ山」山頂部の本曲輪を中心に、三方に延びる尾根に塁段に曲輪が設けられた連郭式山城です。
各曲輪全てがほとんど改変されずに残る上、城跡はよく整備され、土塁、虎口、堀切、竪堀、さらには井戸などの遺構も良好に残っており見応え満点です。
中でも、二ノ曲輪(西部分)と西曲輪間の堀切は、当城の最大の見どころでしょうか。
戦国期に、大幅に改修されているのでしょうが、南北朝時代の城が、こんなにも良好に残っていて満足しました。
(2014/05/14登城して)

ギャラリー

三嶽城を本拠とする支城群(大平城址案内板より)
井伊氏は、三嶽城を中心に、北を天山城(浜松市引佐町)、南を鴨江城 (浜松市中区)、東を大平城(浜松市浜北区)、西を千頭峯城と、支城で固めた。
井伊氏支城群

千頭峯城縄張図(現地説明板より)
00千頭峯城縄張図

【登城記】
千頭峯城全景
千頭峯城北側の駐車場脇から千頭峯城を見上げたものです。駐車場脇には縄張図付きの説明板が設置されています。ここから、写真左の道を下りて登城口へ向かいます。
01千頭峯城跡全景と説明板

登城口へ
駐車場脇の道を下りて行くと、正面に登城口が見えて来ます。こちらは、往時の搦手です。
03登城開始

登城道
登城道は、よく整備されていますが、さすがに植物が最も元気な季節でもあり、登り初めはかなり草が気になります。
07登城道

登城道からの眺望
しばらくの間、登城道から見下ろす景色はなかなかのものです。
08眺望

荷馬街道
しばらく登ると尾根へ出ますが、そこには「荷馬街道」の案内板がありますが、江戸時代頃にでも荷駄を運ぶ馬などが通る道だったのでしょうか?
09荷馬街道

堀切が見えて来ます
荷馬街道を進むと、右手前方に堀切らしき地形が見えて来ます。いよいよ城域に入るようです。
11登城道

堀切(井戸曲輪への道)
尾根を断ち切った堀切ですが、井戸曲輪への道でもあるようです。
13井戸曲輪への堀底道

本曲輪へ
右手に堀切(井戸曲輪への道)を見て、荷馬街道を進むと、すぐ右手に「本曲輪→」の案内板が出てくるので、写真右の階段を登って行きます。荷馬街道はそのまま真っ直ぐ進み、南曲輪の方へ進むようになっています。
15東曲輪へ向かう

東曲輪群
階段を少し登って行くと、削平地へ出ます。東曲輪です。東曲輪は3段構造になっています。東曲輪群の一番下段の曲輪とその上の中段の曲輪の間(写真正面の土塁下)は、今ではほとんど埋まってしまっていますが、堀切があったようで、少し窪みが残っています。また、中段の曲輪は両サイドに腰曲輪が配されています。
17東曲輪

東二ノ曲輪への虎口(搦手口)
東曲輪から右へ廻るように登って行き東二ノ曲輪へ向かうと虎口があります。こちらは搦手口になります。
19二ノ曲輪虎口

東二ノ曲輪
21二ノ曲輪

本曲輪搦手虎口へ
東二ノ曲輪から本曲輪へ向かいます。結構な急坂です。
23本曲輪虎口

本曲輪搦手虎口
本曲輪へ登り、振り返って虎口を見下ろしました。かなり急傾斜です。
本曲輪搦手虎口

本曲輪
本曲輪は約30m×40mほどの広さで、北西部(写真正面奥)に高さ15m、15m四方ほどの高まりが残り、祠が建っています。そして、その前面には縄張図付きの説明板などが3基と千頭峯城戦没者慰霊碑が立っています。本曲輪虎口は、先程登って来た東側の搦手虎口と西側の西二ノ曲輪からの大手虎口の2つあります。また、南側にも南曲輪群へ下りて行く虎口?がありますが、これは後世造られたものです。
25本曲輪

西二ノ曲輪へ
まずは、本曲輪の大手虎口から西二ノ曲輪と西曲輪群へ下りて行くと、土橋様の道が・・・。写真右奥が西二ノ曲輪で、左へ下りて行くと西曲輪へ向かいます。
27西曲輪へ

西二ノ曲輪
本曲輪の北側下段の二ノ曲輪は、先程通って来た東二ノ曲輪とこの西二ノ曲輪がありますが、両曲輪は連続しておらず、ほぼ中央に一段低い平坦地が設けられ、それぞれが独立している。この西二ノ曲輪の西側(写真右)には土塁が設けられています。
29二ノ曲輪西部分

西二ノ曲輪虎口(大手口)
往時の大手道は、南曲輪の西側を通り、西曲輪の南へ出て、西曲輪と西二ノ曲輪間の堀切の手前を右(東)へ曲がり西二ノ曲輪経由で本曲輪へ出ます。この虎口は、西二ノ曲輪への虎口で、写真左側が西二ノ曲輪で、写真右上へ登ると本曲輪へ出ます。
31二ノ曲輪西部分虎口

西曲輪と西二ノ曲輪間の堀切
城内最大の堀切で、上部幅約6m、深さは約3mあります。写真左上が西曲輪で右上が西二ノ曲輪です。この堀切(堀底道)を登り切ったところを左へ曲がると西曲輪へ出ます。
33西曲輪二ノ曲輪間堀切

西曲輪
堀切の西側には西曲輪群がありますが、この写真はその中心曲輪で、約20m×約25mの広さで、虎口(写真やや右)を除いて周囲を高さ1mほどの土塁がめぐっています。
35西曲輪

南曲輪群へ
一旦、本曲輪へ戻り南曲輪群へ下りて行きます。当写真の虎口は本曲輪の南側にありますが、これは後世に造られたものですが、かなりの急傾斜で30度近くあります。
37南曲輪へ

南曲輪群から本曲輪を見上げる
南曲輪群から本曲輪へ直登するこの堀底道は如何にも山城の風情がありますが、これは後世に造られた摩訶耶寺境内から尾根筋を登る道です。
39南曲輪虎口を

南曲輪群
南曲輪群は6つの曲輪が確認できるそうですが、後世造られた摩訶耶寺境内から尾根筋を直登する道で破壊を受けているが、この辺りは段曲輪の様子がよく分かります。尚、本来の大手道は、西側(写真右)を通っていたようです。
41南曲輪

荷馬街道
南曲輪群の東側には荷馬街道が残っていますが、石積みが確認できます。
43荷馬街道

摩訶耶寺境内へ下りる道
摩訶耶寺境内へ下りる急な道はまだまだ続きますが、戻ることにしました。あとで気が付いたのですが、南曲輪群で最大の曲輪は一番下にあるのでした(;>_<;)。しかも、その曲輪が最も良好に残り、3方が土塁によって囲まれているのだそうです(/。ヽ)。
IMG_8904

井戸曲輪
帰りは、急坂道を登り、本曲輪経由で井戸曲輪を見て行きました。井戸曲輪は、東二ノ曲輪から東に約30m下がったところにあります。斜面を削って平坦地を設けて、中央部に直径約3m、深さ約4mほどの井戸が残っていますが、水はありません。尚、発掘調査で掘立柱建物と土塁基底部の土留めと推定される石列が検出されたそうです。
51井戸曲輪

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