摂津 尼崎城(尼崎市)

西三の丸跡に造成された尼崎城址公園

戸田氏鉄が築いた阪神間唯一の近世城郭

別名

琴浦城

所在地

兵庫県尼崎市北城内・南城内
阪神電鉄尼崎駅の南東部一帯(庄下川の東側)が城跡

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 市街地(城址公園、市立文化財収蔵庫、成良中学校琴城分校、明城小学校、城内高校、桜井神社、市立中央図書館、宅地等)
【遺構等】 模擬城壁、模擬石垣、堀、城ミニチュア模型、天主鬼瓦、石垣の石、石碑、説明板

満足度

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訪城日

2012/01/07

歴史等

尼崎は、京・大坂と西国を結ぶ水陸交通の要所であり、古くから港町として栄え、軍事的にも重要な地であった。そのため、戦国時代には多くの武将が陣地を置き、たびたび戦場となった。
尼崎城は、細川高国と細川澄元が尼崎地方を中心に合戦を繰り返していた永正16年(1519)、細川高国が築いたのが始まりと伝わる。その後も、高国と澄元、さらには澄元の子・晴元の戦いは繰り返され、一進一退の状況であった。
その後、織田信長が摂津に台頭してきた天正2年(1574)から天正7年(1579)の間、尼崎城は伊丹有岡城の支城として荒木氏が在城していた。
「荒木村重の乱」の後には池田輝政、豊臣時代には三好秀次が在城し、豊臣直轄領となってからは建部氏が郡代として在城していた。
建部氏は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では西軍に属したが、外叔父の池田輝政の嘆願によって許され、徳川時代になってからも引き続き尼崎郡代を務めた。
尚、この中世尼崎城の所在地は史料がなく特定できないが、大物駅付近にあったという説や近世尼崎城の本丸地域にあったという説などがある。
元和3年(1617)、建部政長が播磨林田(姫路市林田)へ移封となり、戸田氏鉄が近江膳所城から入封し、幕府から新城(近世尼崎城)築城を命じられた。
元和4年(1616)の春、築城開始され、同5年9月頃には普請は完成していたと思われ、同9年の夏までには天守・櫓などの作事も終了していたと思われる。
寛永12年(1635)、氏鉄は美濃大垣へ移封となり、代って遠江掛川から青山幸成が入封し、青山氏が4代が在城した。
宝永8年(1711)2月11日、青山幸秀が信濃飯山に移封となり、成徳元年(1711)、遠江掛川から松平忠喬が入封し、松平氏が7代続き、明治を迎えた。
『ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)他より』

現況・登城記・感想等

尼崎城は尼崎市中心部にあり、当然のごとく完全に市街地化してしまい、城跡は、城址公園、市立文化財収蔵庫、成良中学校琴城分校、明城小学校、城内高校、桜井神社、市立中央図書館、宅地などになっているが、数箇所に石碑や説明板が建てられている。
西三の丸にあたる尼崎駅の南東に城址公園があり、模擬の石垣・土塀・堀が再現されている。
公園の南にある桜井神社(ここも西三の丸跡)には、天守の九曜紋(戸田氏の紋所)棟瓦と巽櫓の鯱瓦本殿前に2枚置かれ、尼崎城の石で造られた「博愛社(後の日本赤十字社)記念碑」も建っている。神社裏側には石柱も立っている。
市立文化財収蔵庫、成良中学校琴城分校、明城小学校一帯が本丸跡で、小学校の南西部(道路沿い)に石碑と説明板が立ち、グラウンド南東部には尼崎城のミニチュア版が再現されている(*^_^*)。
(2012/01/07訪れて)

ギャラリー

城址公園に造られた石垣・城壁・堀
阪神電鉄尼崎駅の南東部一帯が城跡で、城跡の北西部(西三の丸跡)が城址公園になり、石垣・城壁・堀などが築かれている。
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天守棟瓦と博愛社記念碑
公園と道路を挟んで南にある桜井神社(ここも西三の丸跡)には、天守の九曜紋(戸田氏の紋所)棟瓦と巽櫓の鯱瓦が本殿前に2枚置かれ、尼崎城の石で造られた「博愛社(後の日本赤十字社)記念碑」も建っている。
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明城小学校の南西道路沿いに立つ石碑と説明板
市立文化財収蔵庫、成良中学校琴城分校、明城小学校一帯が本丸跡で、小学校の南西部(道路沿い)に石碑と説明板が立っている。ここには伏見門があった。
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明城小学校グラウンド南東部に造られた尼崎城のミニチュア版
小学校のグラウンドには、かなり大がかりな城のミニチュアがあった。ただし、当日は休日のため入って行けなかったので、柵の外側から撮った(/。ヽ)
尼崎城ミニチュア

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