三の丸から本丸を見上げる
別所氏、後に池田輝政の甥由之により築かれた壮大な雲突城
別名
雲突城
所在地
兵庫県佐用郡佐用町平福
形状
山城(標高:373m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、虎口、石垣、空堀、堀切、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
2007/11/15
歴史等
利神城(りかんじょう)は、赤松一族から防備の任を受けた加西郡別所の構えにあった別所敦範が貞和5年(1349)作用郡に入り、比良福利神山に砦を築き、口長谷に館を構えて移り住んだことに始まり、その後別所一族が約200年間この地を治めた。一時、別所光則の代の嘉吉元年(1441)に「*嘉吉の乱」が起こり、一時敗退したが応仁の乱に際し、別所静治は風雲に乗じ、都の赤松家再興を図った功績により、旧領利神城主に復帰することができた。
天正6年(1578)1月2日、秀吉の中国攻めにからみ、上月城にあった山中鹿之助に攻められ落城した。
その後、慶長5年(1600)関ヶ原の功により、池田輝政が姫路城に入り、甥の家老池田由之に作用郡2万3,300石を与え統治を一任した。由之は利神山山頂の砦を打ち壊し、約5年の歳月をかけ他の助成のないまま独力で巨大な城郭群と麓に常御殿と呼ばれる居館と武家屋敷を構えた。標高373mの利神山の山頂に3層の天守丸を配した連郭式山城は、東西300m、南北500mにも及ぶ総石垣造りの広大な山城で、別名を雲突城とも呼ばれた。
これを見た輝政は、余りにも壮大であるため天守破却を命じ、由之は退去させられた。
寛永8年(1631)最後の城主輝興が赤穂へ転封となり、これにより平福は城下町としての歴史を閉じ、鳥取藩の本陣を置く宿場町として栄えることになる。
『現地説明板2箇所より』
【*嘉吉の乱】
赤松氏は円心(則村)に至って、足利尊氏のもと播磨・備前・美作3国の守護を兼ねて大いに家名を上げた。しかし、嘉吉元年(1441)6月24日、円心から3代後の満祐が6代将軍義教を謀殺するという嘉吉の乱を起こした。播磨龍野の奥の亀の山城(城山城・きのやまじょう)に立て籠もった満祐は強大な幕府軍を迎え、一族と共に戦死した。
現況・登城記・感想等
中国自動車道作用ICを下り、北の方へ向かうと間もなく右手前方の山頂に石垣群が見えてくる。竹田城に登城した時のような感動を覚えた。
道の駅「宿場町平福」に車を停めて往時の宿場町を偲ばせてくれるような平福の町を通り、登城口へと進む。
すると、登山道入口に「城郭一部が破損し危険のため登山は遠慮下さい」という旨の看板と金網で遮断されている・・・。地元の方に聞いたところ、「登山する方が時々いる。金網の戸の鍵は開けることが出来るので、気をつけて登ればいいのでは。」とのことであったので入って行くと、また2箇所ほどに同様の文言があったが、構わず登城した。
登城始めてしばらくすると、岩の両側を削った土橋というか岩橋へと出る。そこを渡ると、次に堀切があり、木が朽ちたような木橋が架かっている。渡った所から急坂になり、12~13分ほどひたすら登って行くと頂上部に出る。ここから眺める利神山の紅葉とその最頂部の石垣群の光景が素晴らしい。
さらに進んで行くと、またもや急坂に出、またひたすら登って行くこと12~13分ほど。最後は強烈な坂(坂というより崖?)を登りきると三の丸へと出る。
三の丸からは、正面に本丸の石垣が。そして本丸南下にある二の丸から南の方へ長く続く郭の石垣が所々木々に遮られながらもよく見える。三の丸もそうであるが、二の丸それに続く郭、そして本丸も全て周りは強烈な崖になっており、全て石垣で築かれている。まさに総石垣の城郭である。
往時の城郭はさぞかし壮観であったであろう。それと同時に、このような場所で築城工事をさせられた人はたまらなかったであろう!!
三の丸から二の丸をへは、崩れた石垣の石の上を歩いて行くが、それほど時間は掛からない。
二の丸北東隅にある枡形虎口の石垣は崩れやすいので近づくなとなっているが、実にかっこいい。
二の丸から鴉丸を通って本丸へと出る。本丸はそれほど広くはなく、天守だけが建っていたのではと思われる。本丸からの眺望は当然素晴らしい。
さて、下城である。下城は登城の時よりも、滑りやすく危険である。登城と下城の時間がそれほど変わらなかったが、こんな山城は初めてだ。この城は、杖が必須である。出来れば、軍手も。
(2007/11/15登城して)
ギャラリー
利神城遠景
登城口
登山道入口に「城郭一部が破損し危険のため登山は遠慮下さい」という旨の看板と金網で遮断されている・・・。地元の方に聞いたところ、「登山する方が時々いる。金網の戸の鍵は開けることが出来るので、気をつけて登ればいいのでは。」とのことであったので入って行くと、また2箇所ほどに同様の文言があったが、構わず登城した。
土橋(土橋というよりも岩橋)
登城始めてしばらくすると、岩の両側を削った土橋というか岩橋へと出る。
堀切と木橋
岩橋を渡ると、次に堀切があり、木が朽ちたような木橋が架かっていた。
最初の山の頂上部からの城址遠景
木橋を渡った所から急坂になり、12~13分ほどひたすら登って行くと頂上部に出る。ここから眺める利神山の紅葉とその最頂部の石垣群の光景が素晴らしい。
三の丸から本丸と二の丸方面を
三の丸からは、正面に本丸の石垣が。本丸の真下に見える石垣は三の丸北側の枡形虎口。
本丸~二の丸~馬場へと続く長石垣ライン
本丸南下にある二の丸から馬場へ、南へと長く続く郭の石垣が所々木々に遮られながらもよく見える。
三の丸北側の枡形虎口の石垣
この手前辺りの石垣は、今にも崩れそうで、あまり端の方へは寄らなかった。
三の丸から二の丸へと
三の丸から二の丸をへは、崩れた石垣の石の上を歩いて行くが、それほど時間は掛からない。写真奥は本丸。
二の丸から三の丸を
二の丸から本丸を(右側は枡形虎口)
二の丸北東の枡形虎口(二の丸から撮影)
二の丸北東隅にある枡形虎口の石垣は崩れやすいので近づくなとなっているが、実にかっこいい。
二の丸北東の枡形虎口(虎口外から)
写真手前は急崖になっており、写真を撮るのに苦労した。
鴉丸の石垣
この石垣は良好に残っているが、崩れやすいとの注意が。右側はすぐ下が絶壁に。
鴉丸から本丸への虎口
手前は本丸下腰曲輪から鴉丸への虎口
本丸跡
本丸は狭く、天守だけが建っていたのではと思われる。文字が消えかけた城址名標柱が立っていた。
本丸から三の丸越しに平福の町を