播磨 上月城(佐用町)

上月城址全景

尼子氏の再興をかけ山中鹿之介が城を守るも毛利の大軍の前に落城

所在地

兵庫県佐用郡佐用町上月

形状

山城

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪跡、空堀、土塁、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

1996/08/16

歴史等

正治年間(1099~1201)得平頼景が築城とされる。延元年間(1336~1340)上月盛忠(景盛との説もある)が増修築した。
城主は上月氏と赤松一族が相次ぎ、天正5年(1577)羽柴秀吉に攻められ落城した。
その後、秀吉は尼子氏の遺児・尼子勝久、山中鹿之介を守将として城を守らせるが、天正6年(1578)4月18日、 毛利の大軍に上月城を包囲される。秀吉は救援に向かうが、既に陣を敷いた毛利軍に手を出せず、三木城攻略のために引き上げた。7月5日、 尼子勝久は毛利氏に降伏、開城して自刃し、尼子氏は滅亡した。
上月城はその後、廃城となった。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)・案内板参照』

現況・登城記・感想等

上月城址登城口に、石碑があった。ただの小さな山である。
こんな小さな山が、尼子氏再興の願いを賭けた上月城とは!・・・。ここであの山中鹿之助が「我に七難八苦を与えたまえ」と言ったのか!?・・ ・。等々、いろいろ思い巡らしながら、その小山を登っていった。
当時の私の城址に関する知識では、空堀や曲輪跡が残っているとは云いながら、言われなければ、また石碑等が無ければ、 小学校の時に遠足で行った小山と変わらない。
20分弱で登り切った山上が本丸跡で、その奥の方に二の丸跡があった。下りは反対側に降りて行けば、 もっと分かり易い遺構があるのではと期待しながら降りて行ったら、 下りきったところに堀代わりになっていたであろうと思われる小川が遮っていて渡れなかったので、来た道を取って返すことになってしまった。
結局、よく分からないまま降りてきてしまった。しかし、「今日は、あの尼子氏滅亡の地、あの山中鹿之助の地に来たんです。」 と自分に言い聞かせてその場を離れた。
(1996/08/16登城して)

96年当時の知識は以上の程度であったんだ。今登れば、印象は全く違うんだろうな?
(2010/01/01)

ギャラリー

登城口近くの上月氏発祥の地の石碑

山中鹿之助追頌の碑

本丸跡

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