主郭枡形虎口の石段と石垣
北近江と南近江の境目の城
所在地
滋賀県米原市番場
【アクセス】
登城口は、私が知っている限りでも4つある。
①林道滝谷線或いは西坂林道で青龍滝近くまで車で行き、南尾根から登城する。
(以下は番場宿から)
米原ICから南下してきて、番場宿へ入り、
②蓮花寺から登城する。
③蓮華寺への案内板を通り過ぎ、鎌刃城の大きな案内板が立つ所を左(東)へ入り登城する。
④さらに南西へ進み、本授寺の約50m手前(北)の案内板のある辺りから登城する。
①は、相当な悪路でお薦めは出来ないようです。
私は④から登城し、③の道を降りてきた。
②と③はすぐに合流する。また、②③④の道も、途中で合流する。
尚、駐車は番場宿の西端のちょっとした空地に置いて登城したが、名神高速下にも停めるスペースはある。
蓮花寺:米原市番場511、電話0749-54-0980
本授寺:米原市番場2036、電話0749-54-0990
(④の登城入口)
形状
山城(標高384m)
現状・遺構等
現状:山林(国指定史跡)
遺構等:曲輪、土塁、石塁、石垣、虎口、堀切、畝状竪堀、土橋、水の手遺構、標柱、城址説明板、遺構説明板、遺構案内板等
満足度
★★★★★
訪城日
2010/12/04
歴史等
鎌刃城(かまはじょう)は、箕浦庄の地頭であった土肥氏の居城として築城されたといわれてきたが、定かではない。
この地は、近江の北(京極氏、浅井氏)と南(六角氏)の国境にあたるため、国境を警護する境目の城として、
応仁の乱の頃には築城されていたようで、文明4年(1472)
に京極方の今井秀遠が鎌刃城に籠る京極方の堀次郎左衛門を攻めたという記録がある。
今井氏や堀氏は南北抗争の中でしばしば服属先を変えており、その度に鎌刃城では攻防戦が行なわれたが、永禄2年(1559)以降は、
浅井氏に属した堀氏が居城し、浅井方の城となっていた。
元亀元年(1570)の姉川の合戦後、城主堀氏は織田信長に与したため、信長軍の最前線基地となった。このため、
浅井長政や一向一揆勢にたびたび攻められ、木下藤吉郎(秀吉)の援軍によってかろうじて落城が食い止められている。
しかし、天正2年(1574)に堀氏は突然改易され、翌年に城内にあった米穀2千俵が徳川家康に与えられた後は、
記録に見えなくなっていることから、まもなく廃城になったと考えられる。
『「現地説明板」、「近江の山城 ベスト50を歩く・中井均編(サンライズ出版刊)」等参照』
現況・登城記・感想等
鎌刃城(かまはじょう)は、京都在住時代の10数年前に、新聞に「発掘調査により主郭虎口に大規模な石垣・石段が見付かり、
それ以前の定説を覆す大規模な城郭であったことが分かった。」、確かこのような記事を見た記憶があるが、
発掘調査は1998年からだというから、京都を離れた翌年見たのかも知れない。
いずれにしても、その記事を見て以来、登城するのが悲願(ちょっと大袈裟?)であった。
そして、遂に今回「悲願達成!」というわけだが、期待通り、見どころ満載の素晴らしい城跡だった。
鎌刃城は、典型的な中世の連郭式山城で、山頂部の主郭部を中心に、北・西・南の3方へと尾根が延びている。
北と西に延びる尾根には曲輪が連郭式に配され、南尾根は幅2mほどの両側が切り立つ痩せ尾根が伸び、そこに7条
(南端の切通しも含めると8条)の堀切が切られ、鎌刃城の名前の由来となったと云われる。
鎌刃城が、他の中世城郭と大きく違うのは、石垣(石積み)が各所に使われていることである。主郭周囲や北Ⅴ郭の西側下、
副郭の南端の土塁等々には今でも石垣が残り、主郭と北Ⅴ郭の枡形虎口は石垣・石段で造られている。
北Ⅴ郭からは、西の方に佐和山城址や彦根城、
北の方には小谷城などを望むことができ、
この城が六角氏と浅井氏の国境の城であると同時に、中山道と北国街道が交差する交通の要衝にあったことが分かる。
久し振りの本格的山城で、見事な遺構にたっぷり接することができて大満足の登城だった。
(2010/12/04登城して)
*郭の名称については、青龍滝近くの登城口にある説明板の縄張図(下写真)の郭名を使用する。
ギャラリー
縄張図(青龍滝近くの登城口にある説明板より)
鎌刃城は、典型的な中世連郭式山城で、頂部の主郭部を中心に、北・西・南の3方へと尾根が延びている。
北と西に延びる尾根には郭が連郭式に配され、南尾根は幅2mほどの両側が切り立つ痩せ尾根に7条(最も南の切通しも含めると8条)
の堀切が切られ、鎌刃城の名前の由来となったと云われる。
鎌刃城遠景(東名高速の西側から)
中央の山々が鎌刃城、手前右の山は「番場城(砦)」だそうだ。
大手口
東名高速の彦根43ガードをくぐり、右手にため池を見ながら進むと、この大手口へ出る。ここを右へ向かう。
合流点
大手口から、結構急峻ではあるが、整備された道を登ること約18分で、
蓮花寺やその南から登ってくる道と合流する。写真左へ降りて行く道が登ってきた道で、右奥へ進む道が蓮花寺方面への道で、
その道には長~い土橋があるが、その写真は最後のほうに掲載。
大堀切
合流点から、10分弱で大堀切へ出る。
大堀切を北側土塁上から
大堀切は、最大幅約25m、深さ約9mある。長い歳月の間に斜面崩壊が進み、傾斜も緩やかになり、
深さも浅くなってはいるものの、それでも圧倒される。堀底にいるMっさんの姿と比較してもらえば、
そのスケールの大きさが分かってもらえるだろう。
二重空堀
大堀切の北側の土塁を北の方へ行ってみたら、規模は小さいながら、もう一つ堀切があった。この写真は、
その堀切の北側から移したもので、二重空堀になっているのが分かる。
北Ⅴ郭下の堀切
大堀切の斜面を登ると、その奥には北Ⅴ郭があり、その手前にも堀切が設けられている。即ち、
北端は3重の堀切で防御しているのである。
北Ⅴ郭
北端を防御する重要な役割を果たしていた曲輪で、周囲には削り残して造られた土塁がめぐらされている。
平成10年(1998)度に実施された発掘調査によって、柱間を6尺5寸とする5間×3間以上の礎石建物が検出された。この建物は、
土塁を塁面とする半地下式構造の櫓であったと考えられ、今も、すり鉢状の地形が残っている。(現地説明板参照)
北5郭枡形虎口
曲輪の東側に石垣や石段で築かれた枡形虎口が認められる。平成10年(1998)
度に実施された発掘調査によってその全貌が明らかとなった門の跡で、約5m90cm(3間)四方の規模があり、
位置的に大手門に相当すると考えられる。検出状況から、その構造はコの字状に3段の石段もしくは石垣を配し、
内部に礎石建ちの四脚門が建っていたと想定される。四脚門は間口約3m90cm(2間)×奥行き約2m90cm(1間半)の規模を測る。
(現地説明板より)
北5郭枡形虎口を東下から
虎口の東側は急崖になっており、虎口へ真っ直ぐ入ることは出来なかったと思われる。また、
周りには多くの石が転がり、この辺りは石垣がかなり築かれていたのではと思われる。
北5郭からの眺望
北Ⅴ郭からは、西の方に佐和山城址や彦根城、
北の方には小谷城などを望むことができ、
この城が六角氏と浅井氏の国境の城であると同時に、中山道と北国街道が交差する交通の要衝にあったことが分かる。この写真は、
西方面を撮ったもので、佐和山城は勿論、
彦根城の天守閣も僅かに見える。
北の方を撮るのを忘れてしまった(苦笑)。
北5郭西側下の大石垣
この大石垣は高さ約3m、長さ約40mある。
㊧北Ⅳ-2郭、㊨北Ⅳ-1郭
北Ⅴ郭から南へ、北Ⅳ-2、北Ⅳ-1、北Ⅲ、北Ⅱと続くが、これらの曲輪間には、あまり段差がない。
北Ⅱ郭から北Ⅰ郭を
北Ⅱ郭から北1郭の土塁を撮ったもので、この曲輪間は4~5mほどの比高差があり、
いよいよ主郭が近くなってきた気配がする!?
主郭枡形虎口下
北Ⅰ郭に登ると、石段と石積みで構成される主郭虎口(正門)が現われる。ここでは、発掘調査で、
礎石建ちの門跡が検出され、虎口に至る通路遺構の存在も明らかになった。これは後世の大手道に相当する本格的な「城道」で、
他の中世城郭で確認された例はほとんどない。発掘調査後の写真を見ると、石段下の雑草が生えているにも石垣が築かれ、
その下にも石段があったようだ。(現地説明板参照)
主郭
主郭枡形虎口の石段を登り、主郭を眺めると、「鎌刃城主郭跡」と「第1回鎌刃城まつり」と記された標柱が・・
・。主郭では、主殿の一部と思われる縁側を有する礎石建物跡が確認されており、格式高い建物が存在していたと思われる。主郭周囲は土塁
(石塁)で囲まれている。この石塁は周辺の地面を掘り下げて削り出した地山の内側と外側に石積みを施して構築されている。
破城により上部を壊されているが、当時の石塁の高さは4m近かったと推測される。(現地説明板参照)
枡形虎口を主郭上から
主郭から枡形虎口を見下ろしたものであるが、はるか向こうに下界が見える。
主郭東側の石垣
主郭外側の東側から南側へと石垣が残っているが、南側に廻ると、かなり崩れている。尚、
南側下は急崖となっているが、小さな腰曲輪が認められた。
主郭東側虎口
主郭虎口の東側の石垣には、一部階段状の石垣がある。ここは、日常の通用口として機能していた虎口らしい。
主郭南角の石段
主郭南角の石塁には内部から上がるための石段が設けられており、上部幅が3m以上あり、
何らかの建物が存在していた可能性がある。
南Ⅰ郭
主郭の南側には南Ⅰ郭、南Ⅱ郭と細長い曲輪が続いている。曲輪の両側は急崖になっている。
南Ⅱ郭
南Ⅰ郭と南Ⅱ郭の間には堀切が設けられている。南Ⅱ郭は、主郭とともに主要な曲輪で、
礎石と思われる石材の散在状況から、礎石建物の存在が想定される。
南Ⅱ郭の南端の土塁
曲輪の南端の土塁は、平成12年(2000)の発掘調査から地山削り出し成形によるものと判明した。
土塁の外側には一部石垣が用いられるなど、城の南方防御の要として、その防御を一層堅固なものにしている。(現地説明板より)
南Ⅱ郭の南端の土塁下
土塁の下は、ビビるほどの強烈な崖になっている。
南Ⅱ郭の南端の土塁の石垣
土塁外側には、所々に石垣が散見される。恐る恐る、強烈な崖の下へ廻りこんで土塁外側の写真を撮った(汗)。
南Ⅱ郭と南尾根間の堀切
土塁の東側から下を覗くと、南尾根との間の堀切が見える。この堀切は、
南尾根では南端の切通しに次いで規模が大きい。
南尾根
上写真堀切の向こうには、幅約2mほどの両側が切り立つ痩せ尾根が伸び、そこに7条
(南端の切通しも含めると8条)の堀切が切られ、鎌刃城の名前の由来となったと云われる。この南尾根を歩くのは、迫力があるというか、
なかなか面白い!
切通し
南尾根の堀切の打ち止めは、南尾根の中で最も大規模なこの堀切で、城域最南端部になる。
番場から武奈へ抜ける幹道の切り通しでもある。
青龍滝側の登城口
鎌刃城の水の手でもある青龍滝へ向かって降りて行くと、縄張図付きの説明板が立つ登城口へ出た。
青龍滝
鎌刃城は、この青龍滝から水を引いていたという。滝の上には岩盤に石樋を穿った水路の遺構が確認されている。
石樋は途中で途切れているが、竹樋を伝って導水をしたものと思われる。
西尾根
西尾根は急傾斜なため、虎ロープが張られている。西尾根にも小曲輪が連なり、堀切と切岸による防御が施され、
さらに尾根の先端部斜面には、近江では珍しい3条の畝状堅堀があるということで、取り敢えず一段下の曲輪(西Ⅰ郭)まで降りた。しかし、
頚椎症のため握力が極端に弱くなっている私は、細い虎ロープがあまり役に立たない。その為、それ以上降りて行くのは断念した。このあと、
登るのが本当に大変だった(汗)。もし、西端まで降りていたらと思うとぞっとする(苦笑)。
西Ⅰ郭の水の手
鎌刃城は、青龍滝から水を引いていたという。現在、湖国21世紀記念事業
「中世の山城跡から琵琶湖と水を考える」の参加者により、復元整備され、青龍滝からパイプを使って、
この南Ⅱ郭のすぐ下の西Ⅰ郭と北Ⅴ郭に引かれており、写真のような蛇口があった。何にでも興味旺盛なMっさんが、
蛇口をひねると勢いよく水が飛び散った(笑)。しかし、歩いていると青龍滝の方が遥かに低地にあるような気がするが、
実際には少し高いのだそうだ。昔の人の知恵と才覚は大したものだ!
長~い土橋
帰りは、蓮花寺方面への道で下城した。こちらには、北尾根のかなり北の方に約30mほどの長~い土橋がある。
尚、登城時の道と較べると、距離的には、こちらの道の方が少し長い。