近江 大岩山砦(余呉町)

曲輪跡に石碑と中川清秀主従の墓が

賤ケ岳合戦時に中川清秀が陣を構えた砦で、本格的合戦が始まった場所

所在地

滋賀県伊香郡余呉町下余呉

【行き方】
北陸自動車道木之本ICを降り、国道365号線を2.5kmほど北上し、余呉湖口信号を左(西)折し、北陸本線の踏切を渡り、 200mほど進むと、左側に「賤ケ岳登り口」の案内板がある。ここから50mほど先右側に広い観光用駐車場がある。

形状

砦(山城、陣城) 標高240m

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切?、土橋?、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2008/11/12

歴史等

天正11年(1583)3月初めから始まった賤ケ岳合戦では、わが国の合戦史上、他に類を見ないほど多くの陣城が築かれた。そして、 両軍の息づまるようなにらみ合いがはじまり、長期戦の様相を呈した。
4月4日には神明山砦にて、翌5日には東野山砦にて小競り合いがあったものの、 その後また戦線は膠着状態となった。
その間、堂木山砦にあった山路正国(長浜城主柴田勝豊の部下) が寝返り、佐久間盛政の陣へと走った。そして、「神明山砦・堂木山砦は堅固だが、大岩山砦は防備工事も未完成で、 しかも第二線ということで油断している。大岩山を落せば岩崎山砦・ 賤ケ岳砦の攻略も容易である。」との情報をもたらした。
また、秀吉の主力が、この北近江に張り付いて、北伊勢や美濃の兵力が手薄になった隙をついて、滝川一益や織田信孝が反撃に転じたので、 秀吉は4月17日、2万の軍勢を率いて、岐阜城の信孝を攻撃すべく、 大垣城へと急行し、 主力部隊が不在となった。
そこで、佐久間盛政は、柴田勝家に奇襲攻撃を願い出たが、勝家は、大岩山は敵陣に深く入った砦で、 包囲殲滅される危険があるということで許さなかった。
しかし、執拗に説き続ける盛政に、勝家は、ついに「大岩山攻略後は、速やかにもとの陣に撤収する」という条件付きで許可した。
4月20日、夜影に乗じて盛政隊8000による奇襲攻撃が始まった。大岩山砦を守備するのは茨木城主・中川清秀以下わずか1000名。 岩崎山砦の高山重友と賤ケ岳砦の桑山重晴のもとに、救援要請をしたが、いずれも腰を上げなかった。
止むを得ず、独力で抗戦するしかなく、壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、圧倒的な兵力差で、遂には清秀以下1000名は全員玉砕し、 大岩山砦は佐久間隊の手に落ちた。
尚、このあと盛政は、またもや「大岩山攻略後は、速やかにもとの陣に撤収」という勝家の命に応じず大岩山に留まったため、 秀吉の大垣からの大返しにより勝家方の大敗北の因となったのは周知の通りである。
『歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い(学研刊)ほか参照』

現況・登城記・感想等

登城道は、「賤ケ岳ハイキングコース」として整備され、岩崎山砦 (8分)→大岩山砦(25分)→賤ケ岳砦(1時間40分)と登って行ける。
大岩山砦は、防備工事も未完成な砦であったというだけでなく、規模も小さく佐久間盛政8000の攻撃には、とても防御は無理だったろう。
今は、鬱蒼とした木々の中に小さな曲輪跡が残り、中川清秀主従の墓があり、曲輪周囲に低い土塁が残っているだけである。
尚、墓の背後の尾根の向こうに少し高くなっている所があったが、これも曲輪跡であろうか? 尾根の途中は土橋のようにやや細く削られているようだった。
また、砦から賤ケ岳に向う途中に、戦死した清秀の首を洗ったという「首洗い池」がある。
(2008/11/12登城して)

ギャラリー

余呉湖西岸(川並辺り)から望む
左(北)から、岩崎山、 大岩山を経由して賤ケ岳へとハイキングコースが整備されている。賤ケ岳までは、登り1時間40分、 下り1時間5分ほどと結構タフなコースである。尚、賤ケ岳へは、写真反対(裏)側からリフトでも登ることができ、 また徒歩でも1時間ほどで登れる。

大岩山砦下の坂道
この砦下には、「中川清秀の墓」の案内板と「青嵐大岩山」と彫られた石碑が立っている。 この坂道を登ってすぐ右が砦跡である。

曲輪
大岩山砦は、今は鬱蒼とした木々の中に小さな曲輪跡が残り、中川清秀主従の墓(写真奥)があり、 曲輪周囲に低い土塁が残っているだけである。墓碑は、百回忌の天和2年(1682)豊後岡城4代城主中川久恒 (清秀の五代の嫡孫)がその霊を供養せんと祖宗主従の眠るこの地に建立したものである。。

㊧北側土塁、 ㊨南側土塁
曲輪の周囲の土塁は低いが、よく残っている。特に、 南北の土塁と東側の清秀主従の墓の裏側の土塁は良好にに残っている。
 

土橋?&曲輪?
墓の背後の尾根の向こうに少し高くなっている所(写真奥上)があったが、これも曲輪跡であろうか? 尾根の途中は土橋(写真中央)のようにやや細く削られているようだった。

中川清秀首洗いの池
中川清秀の遺体は、当時土民達により深い谷に降ろし芝で覆い隠し守られたと伝えられるが、 その時ここで首を洗ったとされるそうだ。今は、池には水がないが、周りは湿地で、当時は水が溜まっていたことが窺える。

賤ケ岳頂上から砦群を見下ろす
賤ケ岳からの眺めは素晴らしく、合戦時の砦の山々がよく見える。

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コメント

小島俊一(2014/02/24)

私は中川家家臣の子孫で、故郷(大分県竹田市)の資料館の文献や家系図から賤ケ岳の合戦のあたりから家臣となり明治の廃藩置県まで至りました。
定年退職後にルーツは近江の国とありますので、滋賀県あたりの散策と是非とも賤ケ岳の合戦場に兄弟と行ってみたいと思っておりました。
余呉湖のあたりに合戦場があり、そこに初代藩主中川清秀公の墓があることは凡そわかっておりましたが、今回おかげさまで大岩山砦とその場所までもがわかり、有り難く厚く御礼申し上げます。
いずれ訪れるときは貴殿の資料をプリントアウトさせていただき、持参したいと思います。
また、私の故郷の岡城祉に高評価をいただき、うれしさでいっぱいです。
残念ながら現在はマイナーな観光地で訪れる旅行者も少なく、土日でも閑散としていますが、私にとってはかえってそのほうが岡城らしく、このままでいいのではないかと思ってしまいます。
岡城は近戸口にまるで西洋の城壁のようなえん曲した石垣があり壮大な眺めです。残念ながら草が生い茂りその雄姿をご覧いただけなかったようですが、また何時かお越し下さい。
ありがとうございました。

タクジロー(2014/02/24)

小島俊一さま
当サイトへのご訪問とコメントをありがとうございます。
賤ヶ岳合戦場跡は、比較的行きやすいですから。是非、ご訪問戴ければと思います。大岩山砦へは、賤ヶ岳から降りていくという手もあるかと思います。
賤ヶ岳は紅葉が見事ですから、是非、その季節にご訪問することをお薦めします。
それから、岡城は最高ですね。
別名が奇しくも同名ですが、兵庫県の竹田城とともに、両横綱だと思います。
現在、マイナーな観光地になっているなんて考えられません。
次回は、草の少ない冬に登城したいと思っております。
またのご訪問とコメントをお待ち申しております。

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