備中 松山城(高梁市)

二の丸から本丸を(右から現存天守、復元五の平櫓・六の平櫓)

日本一高い所にある現存天守閣、日本三大山城の一つ

別名

臥牛城・高梁城

所在地

岡山県高梁市内山下1

形状

山城(標高:430m、比高370m)

現状・遺構等

【現存】天守(2層2階)、二重櫓、三の平櫓、三の丸の東土塀、石垣
【復元】五の平櫓、六の平櫓、四棟の城門と土塀、他に山麓の御根小屋跡は高校敷地となり石垣と庭園の一部が現存

満足度

★★★★★

訪城日

1996/08/16
2007/11/16

歴史等

鎌倉時代の仁治元年(1240)に有漢郷(現上房郡有漢町)の地頭・秋庭重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。永正年間(1504~1520)三村元親が入った。
その後小松山に移り、城の縄張りを拡大し戦国時代には臥牛山全体に及んだ。
天正2年(1574)毛利氏に攻められ落城し、三村氏が滅んだ後も毛利氏の東方進出の拠点として城代が置かれた。
またさらに毛利氏が防長2国に退いてからも、幕領となり、備中国奉行として赴任していた小堀正次・政一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていた。
以降、池田氏・水谷氏(みずのやし)・安藤氏・石川氏・板倉氏と城主が代わり明治を迎える。現存する天守等は天和3年(1683)に水谷勝宗により修築されたものと伝えられる。
『パンフレット参照』

日本三大山城

大和高取城岩村城とともに日本三大山城の一つで、備中松山城は天守が現存する唯一の山城、岩村城は(江戸諸藩の城郭の中で)日本一標高が高いところにある山城で、高取城は日本一比高の高い城と、それぞれ日本一の特徴を持っている。

現況・登城記・感想等

標高290m地点の鞴峠(ふいごだわ)が車の終点です。そこからは、遥か下の方に町並みが見え、いよいよ「日本三大山城」の一つに登城するのだとワクワクしてきた。鎌倉時代の大松山城は、 さらに山深い所に築かれていたというから恐れ入る。近世の松山城(小松山城)でさえも、この鞴峠から天守まで15分ほど掛かったのです。
松山城は、天守そのものは小規模なもので、特別美しいとは思わなかったが、最初に本丸及び二の丸の下の石垣群が見えた時は本当に感動した。天然の巨岩の上に、幾重にも重なる石垣群は最高です。
一方、「よくぞこんな山奥の、しかもこんな高所に・・・。労役に借り出された人の苦労と危険は並大抵のものではない。自分でなくて良かった( ̄ー ̄;。」などと考えるのは私だけでしょうか??
また、山頂部の本丸や二の丸から遥か遠くまで山並みが続く眺望も素晴らしい。
(1996/08/16登城して)
 
11年ぶりの登城です。今回は、会社のOB仲間N氏とT氏も一緒である。
今日は金曜日。本来ならば晴れた日に登城したいところだが、あいにく、曇り空の上に時々霧雨が・・・。しかし最近は、土日祝日は鞴峠まで車が入れないとのことで強行した。
前回登城した時よりも、心なしか遊歩道が綺麗に整備され歩き易くなっていたような?
前回もそうであったが、今回も大手門内枡形から見上げる 「幾重もの石垣群と天然の巨岩が見事に溶け合った光景」に見とれて、ついつい何枚も写真を撮った。
二の丸へ上がると、前回の登城時のように、天守だけが寂しく建っているのではなく、五の平櫓と六の平櫓が復元されて現存天守を際立たせている。本丸へ上がって天守を見ても、そのせいか前回よりも立派に見えたのは不思議だ。裏へ廻り、後曲輪から見る現存二重櫓と天守の姿も相変わらず素晴らしい。おまけに今回は見事な紅葉である。
さて、次はもう1つ奥にある大松山城へ登城だ~!!!
(2007/11/16登城して)

【余談】
勇んで大松山城へと向かったのは良かったが、ここからが情けない結末を・・・。
小松山城の裏を下って行くと、大松山城との間の最も低い地点に、大掛かりな堀切があり、橋が架かっていた。橋の先を見ると何匹もの猿が座っている。おまけに山中のそこらじゅうから、ギャーギャー(キャッ、キャッではなかった)という猿の泣き声がしてくる。まるで猿同士が、侵入者が来たぞ~って連絡し合っているようである。
41堀切1
私は猿に限らず動物(虫も含む。当然熊も猪も。)が苦手である。それでも勇気を振絞って進んで行くと、猿は何処かへ去って行った。ほっとして、今度は大松山城へと登り始める。するとまた3匹ほどの猿が道を塞いでいる。おまけに、周りにも何十匹もの猿がいるのがわかる。
猿との間が3mほどの所まで進んだが、猿は知らんぷり。猿と目を合わさないようにとの注意書きを見ているし、このまま道を通るには猿を見ないわけにはいかない。どうしようかN氏とT氏と相談。結局今来た道を戻ることにした。
戻って小松山城の管理人の方にその旨言うと、「ここの猿は飼っている猿だから悪さはしないから大丈夫。道を除けないようなら、コラーッ!と言えば良い」とのことである。
また3人で相談し、どうしようか迷ったが、天気も悪く薄暗くなってきたし諦めようということになった。私は、本当は怖くてもどれなかったんだけど・・・。内緒、内緒・・・。
大松山城は、今回の城めぐりの中でも非常に期待していた城だけに残念だったけど。やっぱりなあ。
ちなみに私は戌年である。関係ない??
(2007/11/16)

ギャラリー

大松山城と小松山城(備中松山城)、及び御根小屋の位置図
01松山城位置図

松山城縄張図
02備中松山城縄張図

鞴峠(ふいごとうげ)
土日祝日以外は、山腹の鞴峠まで車で登って行ける。土日祝日は、シャトルバスが出ています。
11鞴峠

中太鼓櫓跡
歩き始めてしばらくすると、中太鼓櫓跡の石垣が見えて来ます。 
12中太鼓櫓跡

大手門跡
ここからが、いよいよ石垣群の始まりである。 
13大手門跡

大手門内枡形(足軽番所跡直下)から見た高石垣 ~クリックにて拡大画面に~
この「幾重もの石垣群と天然の巨岩が見事に溶け合った光景」は本当に魅入ってしまう。
14高石垣

大手門内枡形から見た高石垣横の巨岩(上写真の右側の巨岩)
それにしても、こんなデカイ岩の上での作業、考えただけでもゾーッとするよねえ?!
15巨岩

三の丸跡から二の丸方面の石垣を望む
16三の丸から

黒門跡 
17黒門跡

黒門から鉄門への登城道 
18黒門から鉄門への登城道

二の丸から本丸を ~クリックにて拡大画面に~
(右から現存天守、復元五の平櫓、復元六の平櫓)
前回の登城時のように、天守だけが寂しく建っているのではなく、五の平櫓と六の平櫓が復元され、現存天守を際立たせている。
21二の丸から本丸を見上げる

前回登城時(1996/08/16)の工事中の五の平櫓。右奥に天守が見える 
IMG

天守(現存) ~木造本瓦葺き2層2階~
本丸南御門(復元)をくぐり本丸へ入ると、岩盤の上に建つ天守(現存)が現れる。 
22天守1 

23天守2

本丸
手前は復元本丸東御門、奥右から復元六の平櫓、復元本丸南御門、土塀も全て復元。
24本丸

前回登城時(1996/08/16)の工事中の土塀 
IMG_0001

現存二重櫓と天守(左奥) ~クリックにて拡大画面に~
天守同様、天然の巨石を櫓台とした2層2階の構造である。このアングルもこの城の見どころの一つである。おまけに今回は見事な紅葉であった。
31現存二重櫓

大松山城との間の堀切と橋
またいつかこの橋を渡って、大松山城へ行ける日は来るのだろうか?ウ~ン(汗)!!
猿が出てこない日ってあるのかなあ??? 
41堀切2 

松山城遠景(城見橋パーキングから)
城見橋パーキングからは僅かに天守が見える。本当は、山頂部の木々を伐採して、麓から天守をはじめとする石垣などの城址が望めるようにしたいようですが、国有林のため駄目なんだそうで残念です。
城見橋パーキングから松山城を望む

トップページへ このページの先頭へ

コメント

林定一(2011/04/14)

3月5日に出向きました。ご紹介通りの山城に驚嘆しました。北側の橋は観光用に計画したらしいが、国有林に阻まれ車道が整備できなかったらしく休眠状態ですね。南条範夫の連作小説「古城物語」上下(古本で入手)には城にまつわる逸話が想像豊に語られてます。ご参考までに

タクジロー(2011/04/15)

林定一さま
ご訪問とコメントありがとうございます。
また、南条範夫氏の小説の情報ありがとうございます。
国有林ですが、頂上付近の木も、本来は伐採し、麓から見えるようにしたいようですが、国有林のため駄目なんだそうで、残念です。
今後とも宜しくお願いします。

しんしん(2011/11/16)

司馬遼太郎さんの「峠」を読んでいたら河合継之助が山田方谷を訪ねてこの地に来た事が書かれていて、タクジロー様の登城記録もあるに違いないと・・・・雰囲気の残っているお城ですね。小説がいっそう楽しく読めます。サルがたくさん出てきたとの事ですが怖いでよね・・・・

タクジロー(2011/11/26)

しんしん様
備中松山城は、私も、「峠」をはじめ、司馬遼太郎さんの小説や紀行文を読んで、興味を持ち、出掛けた城です。
松山城の石垣は、何度行っても見応え充分です。
いつか、猿にも負けず、大松山城へも登城したいと思っています(苦笑)。
今後とも、よろしくお願いします。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント